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2012年12月31日月曜日

また死に損ないました。・・交差点でミニバンに押し倒される。

つい先日、散歩先のコーヒーショップからの帰路、青信号の交差点を渡り始めた際、左から来るミニバンに気付きましたが、ほんの2~3メートルしかなかったので、そのまま衝突し、右手に杖を持ったまま横様に倒れかけると言うきわどい経験をしました。

すぐ立ち上がれたくらいですから、殆んど停止状態だったのでしょう。
運転していた奥さんが親切な方で、遠慮する私を無理やり私の自宅まで送ってくれました。 間もなくご主人も駆けつけて来られ、妻が応対しましたが、私は別に怪我もしていないし、それより散歩疲れの方がしんどかったので、後は妻に任せて寝室に引揚げました。

妻の話によると、同じ湘南ライフタウンの隣の街区にお住まいの方だったようですが、翌日にはご丁寧に見舞いの花束を持って来られました。 これでまた一つ好縁が増えたと喜んでいるところです。 こういうことがあると、人生長生きも捨てたものではないなと、いっとき病苦を忘れます。

ひとつわかったことは、私が死ぬことを恐れていないと言うのは、本当らしいということでした。 12年前に前立腺全摘手術を受ける決心をした時もそうでしたが、これで失敗したら死ぬかも知れないと思っても、そのこと自体は左程苦になりませんでした。 4年前の急性大動脈解離については、前後の記憶が一切ないので、なんとも言い切れませんが、早朝(恐らく徹夜で)PCを使っていて、妻の居る隣室へ駆け込み、しゃがみ込んでそのまま仰向けに寝ころんで失神したことや、病院へ到着した時は心タンポナーデ寸前だったとの話から察するに、発症後もPCのデータ保存やゴミの後始末その他に時間を費やしていたと思われます。
因みに私の整理整頓癖は、ほとんど病的で、廃棄古紙や新聞紙の一枚々々に到るまで、すべて端を揃えなくては気がすまず、そのため多大な時間と労力を浪費している程です。

それにしては、普段から愚痴が多すぎると言うのは本当ですが、それは私が肉体的苦痛に極端に弱いからのようです。 おそらく拷問に掛けられたらあっさり転向するか、さもなければ自殺してしまうでしょう。 堀部安兵衛、山岡鉄舟、東郷平八郎他の強靭な精神に感嘆する所以です。

2012年11月24日土曜日

医療統計は個々の患者にとっては無意味!

今日の日経寸評欄に米国の生物学者スティーブン・J・グールドが不治の病を宣告された時、いろいろ文献に当ってあれこれ考えた上で最後に到達した結論について書いている。 詳しいことは直接紙面を読んでいただくことにして、ここでは余命に関して彼の残したという言葉を再掲しておく。
・・・抽象的な値にすぎない中央値は個々の事例とは無関係だ・・・

統計数値が大数の法則を前提(もともと法則というより単なる前提に過ぎないが)とする以上、そんなことは当たり前だと言うことは誰でもわかっていそうなものだが、殆んどの人々が誤解しているのが実態である。

大数の法則に基づくということは、全体の傾向を示すだけで個々の構成要素の傾向は何も語っていないということは統計学のイロハである。 たとえば、100人の病人にある薬が50%の有効性を示したと言う場合、多くの人は100人の全ての人に50%の効果があるに違いないと誤解する。
事実はそうではない。 50人には多少効いたが残りの50人には全く効かなかったというのが正しい解釈である。

したがって、医師や行政など大勢の病人を扱う人にとって統計数値は極めて有効かつ重要であるが、一人一人の病人自身にとっては何の意味も持たないどころか、無用な不安や期待をもたせると言う意味では有害でさえある。 役人同士、医師同士あるいは学者同士でしか通用しない概念で徒らに悩める病人を更に惑わせるようなことは止めた方が良い。

しかし、殆んどの専門家はそのことを知らないか忘れている。 グールドでさえ、わが身につまされなかったら意識せずにこの世を去っていたに違いない。

斯くいう私自身、学生時代から分かっていたつもりだったが、骨身に染みて分かったのは 2000年に、人間ドックに入ったとき、妻が勝手に指定した PSA検査で前立腺癌が検出され、手術すべきかどうか、迷いに迷い、インターネットで米国の論文を読み漁り(日本の病院や大学のサイトには何も載っていなかった!)、結局、何の参考にもならないという結論に達した時である。

要するに、集団の傾向に関する統計値は、個人の運命とは無関係だと言う厳然たる事実に皆目を瞑っているのだ。
このことは、私のもう一つのブログ 「50年前の今日・・駒場・本郷の一期一会」 の 1961.5.16(火) 駒場の一日・・・統計学やら女性への関心やら の(注)にも書いてあるので関心のある方はどうぞ。

2012年11月23日金曜日

演奏家と楽器・・・ピアノとバイオリンの違い?

昨日(2012.11.22)の日経朝刊 「文化欄」 にピアノ調律師山田宏氏「音作りはオーダーメイド」 と題して一流ピアニストの音に対する厳しい要求について書かれている。 詳しいことは例によって紙面を読んでいただくが、その内容は、音程、音色、強弱、バランス等、多岐に渡り、それも演奏者ごとに注文が付くという趣旨だったが、それを読んで、思い出したことが2つある。

ひとつは、娘が英国留学中お世話になった恩師フランク・ウィボウ氏が、最近、鎌倉文化ホールで開いたチャリティリサイタルの際、会場のスタインウエイの調律師をきりきり舞いさせたと言う話である。
一音一音の正確さなどは、当たり前、タッチしてから鳴り出すまでの微かな時間のずれから始まって、和音を弾いた時の夫々の音の大きさや持続時間等々・・いろいろな不具合を指摘され、開演時間の直前まで大童だったとか。

もうひとつは、亡父が、学生時代の昭和の始め、故宮本金八氏に始めて会った時に言われたと言う言葉、「バイオリン製作者の生き甲斐は、音色です。 お金や名声ではありません。」 である。
(亡父の遺稿 「A Mysterious Episode of Violin 」より) 

いずれの場合も、演奏者の思い通りの音を実現するためには、職人の手が必要だと言う点に変わりはないが、ピアノの場合は製作者と調律師の分業が成立しているのに対して、バイオリンの場合、それが無い。 必要なら製作者自身、もしそれが故人なら別の製作者の手に委ねるられることになる。 しかし、ストラディバリウスの調整をあえて手がけられる職人が分業が成立するほど沢山居るとも思えない。 最終的には、演奏者自身の手に委ねられているというのが実態だろう。

2012年11月19日月曜日

急性A型大動脈解離からの生還4周年

手足の筋肉運動は、かなり回復してきたが、極めて不安定、且つ緩慢なので、大通りなど信号が変わらないうちに渡りきれることはあまりない。 その意味でも杖なしでは運転者が気を使ってくれないので出かけられない。
以上は眼に見える症状なので他人に説明する必要がないが、その他に長時間の超低温手術の後遺症は、全身に渡って山ほど有り、苦痛と不快感は一向に去らない。

主な症状は、
① 周期的に襲ってくる鬱症状。 毎日、毎週、毎月、季節の変わり目・・の波がある。
② 言おうと思っていることが旨く言えず、相手との会話がちぐはぐになりがちなので、面と向かっては時候の挨拶くらいしか出来ない。 (PCでは、ゆっくり時間を掛けて推敲できるので一応まともに会話できている心算であるが、一通のメールの返事が3ヵ月後になることもある。)
③ 低温手術中に起きた虚血状態に起因する下半身の皮膚障害(靴擦れ、下着擦れの慢性化)で長時間の歩行や着席に苦痛を伴う。

どれも、命には別状がないとのことで、すべて専門医の守備範囲外。 要するに現代医療の対象とする人体の耐用年数を過ぎた長生き病患者の行き場所はないということだ。 当然と言えば当然であるが、今後暫くの間増える一方のこういう半病人が次の世代の足を引っ張ることの無いよう祈るのみである。


2012年10月6日土曜日

『国家不要論者=満足せる豚』 の能天気な平和ボケ

15年ほど前に、呉で或る学会があったときエクスカーションで江­­田島を見学しました。そのときのガイドの老人の話のとおりの光­景­を見て感慨一入です。  日露戦争以来の血染めの遺品や遺書などが展示されている『教育参考館­­』を後にしようとした時、出口で一緒になった一人の将校らしい­制­服の自衛官が、出口を背にして正面階段の方へ向き直り、脱帽­して­最敬礼をしていた姿には、理屈ぬきに感動しました。 その一挙手一投足から国家の根幹を支えているのだと言う気迫がひしひしと伝わってきました。 一緒に­見学し­ていた学会の面々の能天気な表情が物見遊山の野次­馬のよう­で、情けなくなりました。 



学者や経営者の中には国家は不要だと思っている人たちもいるようだが、国際学会や国際企業、果ては国際犯罪組織に至るまで、最終的には国家間の決め事の中でしか、活動できないことを忘れたわけではないだろう。

10月3日の日経夕刊のコラム「大機小機」欄に 『経済と国家の関係』 と題する、真に当を得た論説が載っていたので、是非一読をお勧めする。 ここに全文を転載したいところだが、長くなるので一部を引用しておきたい・・果たして論者(”風都”子)の真意が十分伝わるかどうか・・
「・・・経済活動の前提となるもの(国家による所有権の安定性の維持)を経済的な損得勘定とてんびんにかけるべきではない・・・」
「・・・そもそも経済発展の土台は、国家による所有権の安定性の保護だった・・・」
「・・・尖閣などの問題は、日本政府に所有権の安定性=市場の安定性を守る決意があるかどうかを問うているのではないか・・・」
「・・・尖閣などの問題を解決するには・・・・・・・・・。 だが、どんな解決策にしても少なくとも経済的利益をあてにした 『友好関係』 を維持するため、というような理由付けは避けるべきであろう。」

2012年9月22日土曜日

国家不要論者の詭弁・・政治を混乱させているのは誰か?

フェイスブックの基本データに政治観という欄があるので
『当面、国家は不可欠。一億人の集団の秩序と安全を守る他の選択肢は見当たらない。』
と書いたが、こんな当たり前のことを、当たり前でないかのごとく詭弁を弄して世論を誘導しているマスコミの真意を改めて疑わざるを得ない。
もし本気で言っているとしたらその無知と能天気さに呆れる。
これが所謂一流大学出身者だとすれば、その大学名を聞いてみたいと思うのは私だけではないだろう。石原さんが苛立つのも良くわかる。

2012年9月13日木曜日

「学士会報・・50年間続く愛読書」の危機?


最近、学士会報の体裁が一新された。所載論説は相変わらず流石と思わせるものが多く、いつも期待を裏切らない。無責任な週刊誌は論外であるが、比較的真面目そうに見える月刊誌のように政治的主義主張に偏ることなく、具体的な事実と体験に基づくご自身の名誉を懸けた論考で、我々の無知を反省させてくれることが多い。

だだし、最近は執筆者の知識水準に編集者が付いていけなくなりつつあるのではとの懸念を抱かせるケースが散見される。

一例として、第896号に山内昌之東大名誉教授が書かれた「中東危機の現状」にこんな文言が載っていた。
・・・アブドゥッラーという人物の歓迎すべからざる面・・・
端倪すべからざる・・・」という褒め言葉を「歓迎すべからざる・・・」と勝手に「訂正」したつもりなのだろうが、これでは全く逆の意味になってしまう。こういうことをされた方はたまったものではない。

かつて、私も、ある出版社の編集者に「FNBC」を「FNCB」と勝手に直されて、献本先の識者から叱られた苦い経験があるだけに、山内氏の無念やるかたないお気持ちが察せられる。

学士会報だけは、と信頼していたのに、こういうことが続くようでは、まともな執筆者も、読者も去って行く一方だろう。その結果は、日本語文化の荒廃と知識水準の止めどない低落である。

学士会編集部の猛省を促したい。

2012年8月8日水曜日

空蝉(うつせみ)ならぬ現蝉(うつつせみ)

去年は、7月上旬に蝉の抜け殻を見つけたのに、今年は、どうしたわけかずっと遅れて下旬になるまで全く蝉の声も聞こえず姿も見なかった。
やっと2週間近く遅れて、微かに鳴き声らしき音が聞こえたので、朝早く出かけてみると、玄関ポーチの前のタイルの上に抜け殻らしきものが仰むけに転がっていた。 ああ、やっと出だしたかと思って手にとって見たら何と脱皮に失敗して敢え無く最期を遂げた穴蝉(郷里の桐生近辺では、羽化する前の蝉の幼虫をこう呼んでいた)だった。

子供の頃の私にとって穴蝉は、成虫以上の宝物だったので、そのまま捨てるに忍びず、持ち帰ったものの流石に死骸となるとあまり気味の良いものではない。 そこで、せめて記念にと撮ったのがこの画像である。 それにしても、これまで、こんな焼けたタイルの上に這い出して死んでいた例はこの家を建ててから20年以上経つが一度も無かった。

公園で鳴いているのもクマゼミやミンミンゼミがやけに多く、いずれにしても変な夏である。

我が家の山百合

谷間の白百合と言いたいところだが、猫の額に白百合では百合に申し訳ない次第。

例年は3本位咲いていたのに、今年はこれ一本しか花を付けなかった。
何となくおかしな夏である。

2012年8月6日月曜日

小学校の教科書に載せたい言葉。

以前から、TVニュースを見るたびに出演者の能天気な、或いは傲慢で自己中心的な発言に我慢がならず、悪口ばかり言って家人の不興を買って来たが、2008年11月の発症以来、それが益々激しくなり、その都度、精神安定剤のお世話にならざるを得ない状態が続いている。 しかし、ときには文句なしに感激して病苦の不快感を忘れることもある。

その一つは、これまでこのブログでも何度か触れてきたが、一昨年のノーベル物理学賞を受賞した小林博士の夫人がTVインタビューに答えて言われた言葉・・・夫人は小林氏の母堂が氏の受賞を見ずに他界されたことに触れそれが一番の心残りだと言った後、こうつぶやかれた・・・ でも人生ってそういうものですよね」 であるが、ついこの間、それに勝るとも劣らない言葉を聞くことが出来た。 ロンドンオリンピックの男子体操競技で個人総合優勝を果たした内村航平選手のお母さんがTVアナウンサーのお定まりの愚問に答えて言われた言葉・・・「私は産んだだけですから」 である。

私は、こういう謙虚な方々に心から敬服する。 いずれも小学校の教科書に載せて然るべき平成の名言だと思うのは私だけではないだろう。

2012年7月28日土曜日

ロンドン・オリンピックの開会式は新しい時代の始まり?

昨日の夜、ロンドン・オリンピックの開会式があったらしい。
今朝のTVでちらと見たが、とても国際オリンピック大会の名に値する行事とは思えなかった。
World Cup や WBA の方が余程国際大会の名に相応しい。

国家・民族を代表しているのに、何故それを前面に出すのを躊躇うのか。
それに、英国の国家元首の顔が見えなかったのは、開会宣言の後、退席してしまったのか。随分失礼な話だと思うが、私の見落としでないとすれば、私の頭が旧すぎるのか。
東京オリンピックのとき昭和天皇は、終始、立ったまま各国選手団の答礼に応えられた。
偽りの友好を演出しているのは何処の誰だろう。
アングロ・サクソンにその力が残っているとは思えない・・・

勿論、各国の選手達の多くは、それを百も承知で、正体不明の演出者に迎合しているのだろうが、私には、“満足せる豚の屠殺場への入場” としか見えなかった。

多分、病人の妄想だろう。
何れにせよ、私の時代は完全に終わったようだ。

2012年7月14日土曜日

第二次世界大戦 世代への頌詞 (Tribute to the WWⅡgeneration)

新入社員時代の上司(直属課長)であり、文系新入社員の私を技術部に配属するという前代未聞の人事を要求した山本卓眞富士通名誉顧問が亡くなり、また敗戦の惨禍を知る憂国の士が一人去ったのを機にWWⅡにおける米・独・日のエピソードを一つずつ紹介することにした。

その1 "ノルマンディー上陸作戦" (Operation Overlord

ハリウッド映画 “The Longest Day” とポール・アンカ作詞・作曲の主題歌を紹介するだけで充分だろう。



この映画の日本語題名を "史上最大の作戦" と付けたのは、大成功だったと言われているが、それは、私に言わせれば商業主義に毒された戦後の日本人の言い分で、Paul Anka に対する冒涜である。 彼がこの歌詞に込めた思いはそんな浮ついたものではないことは、よく読めば分かるはずだ。 それは、一人一人の兵士の立ち向かった苦難と恐れであり、よくそれに耐えて闘った勇気と運命への挽歌である。 20歳でこの曲を作った Paul Anka に改めて敬意を表したい。



Many men came here as soldiers
Many men will pass this way
Many men will count the hours
As they live the longest day

Many men are tired and weary
Many men are here to stay
Many men won't see the sunset
When it ends the longest day

The longest day the longest day
This will be the longest day
Filled with hopes and filled with fears
Filled with blood and sweat and tears

Many men the mighty thousands
Many men to victory
Marching on right into battle
In the longest day in history


その2 "リリー・マルレーン" (Lili Marleen
 
アフリカ戦線で独・英両軍の兵士によって愛唱されたのを機に全ヨーロッパで各国語に訳され、歴史的ヒットソングとなった。

後に、マレーネ・ディートリッヒの退廃的な歌声による連合国側の対独謀略放送に利用されたので、オリジナルはラーレ・アンデルセンの1939年版だと言うことを知らない人が殆んどになってしまったが、炎熱のアフリカ戦線で実際に過酷な戦闘のさなかにあった独・英両軍の兵士によってドイツ語のまま歌われたのは後者のほうである。

ザグレブ放送から流れてきたこの歌を聞き、アフリカ戦線の兵士達にも聞かせたいと、たまたま放送局に居た友人に頼んでベオグラード放送の零時の定時放送に載せてもらったのは、かのロンメル将軍だったと言うのを何処かで読んだ記憶がある。 また、彼はドイツ陸軍最初の平民出身の将官でもあった。 "花も実もある" とは、彼のような人物をいうのだろう。



Vor der Kaserne
Vor dem großen Tor
Stand eine Laterne
Und steht sie noch davor
So woll'n wir uns da wieder seh'n
Bei der Laterne wollen wir steh'n
: Wie einst Lili Marleen. :

Unsere beide Schatten
Sah'n wie einer aus
Daß wir so lieb uns hatten
Das sah man gleich daraus
Und alle Leute soll'n es seh'n
Wenn wir bei der Laterne steh'n
: Wie einst Lili Marleen. :

Schon rief der Posten,
Sie blasen Zapfenstreich
Das kann drei Tage kosten
Kam'rad, ich komm sogleich
Da sagten wir auf Wiedersehen
Wie gerne wollt ich mit dir geh'n
: Mit dir Lili Marleen. :

Deine Schritte kennt sie,
Deinen zieren Gang
Alle Abend brennt sie,
Doch mich vergaß sie lang
Und sollte mir ein Leids gescheh'n
Wer wird bei der Laterne stehen
: Mit dir Lili Marleen? :

Aus dem stillen Raume,
Aus der Erde Grund
Hebt mich wie im Traume
Dein verliebter Mund
Wenn sich die späten Nebel drehn
Werd' ich bei der Laterne steh'n
: Wie einst Lili Marleen.

 
その3: "神風特別攻撃隊" (Kamikaze Attacks)
 
サイパン島陥落直後、日本本土への B29 による爆撃が可能になった危機的状況の下で、南方との石油兵站線の要衝であったフィリピン防衛の任にあった大西瀧治郎海軍中将が、僅かに残された40機の航空戦力でレイテ湾に殺到する米軍に一矢報いるための非常手段として配下の士官らにはかり、全員の同意の下に編成した4つの航空編隊が最初である。 本居宣長の "敷島大和心をひと問はば朝日に匂ふ山桜花" に因んで、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名づけられた。

山本さんのお兄さん(山本卓美中尉)も、この後に続く陸軍特別攻撃隊の先駆け “勤皇隊” の隊長として、レイテ湾で敵輸送船団に突入空母撃沈の報告もあるして戦死されています。 ご本人も奉天でソ連のスターリン戦車部隊への特攻出撃の寸前に終戦となり、なおも進撃してくるソ連軍に心を残しながら、"地を這い草の根を食んでも生きて帰り、国のために尽くせ" という部隊長命令(名目は陸軍航空士官学校への用件不明の出張!)で帰国させられたそうです。 部隊長自身は最後まで現地にとどまり、シベリアに連行され生還することはなかったとか・・・

因みに、大西中将は、直前まで軍需省中枢に居て、米国に対する圧倒的劣勢を熟知しており、日本本土が米軍によって蹂躙される前に一刻も早く、講和に持ち込まなければならないと考えていたらしい。 しかし、実際に逸り立つ青年将校等の反対を押し切り、終戦を命ずることが出来るのは、天皇陛下しか居ないということも判っていた。 特攻は一方において米軍に "日本侮り難し" と思わせると同時に、他方において、天皇陛下に事態の深刻さを知らせ、青年将校らが天皇陛下の裁断に従わざるを得ない状況を作り出すことが真の目的だったと言う証言もある。 当時、終戦を口にしただけで暗殺されかねない状況だったことは、現に昭和天皇によるポツダム宣言受諾の裁断がなされるや、直ちに天皇軟禁のクーデターが企てられたことからも想像できよう。 いづれにせよ、大西中将自身は、終戦の翌未明に全ての責任を負って自決している。

何事にも例外があり、数が増えれば、怪しからぬ者も出て来ようし、初期の目的や意図が曖昧になり、特攻の自己目的化が生ずるのはやむをえない。 それを以って、当初の意図を愚考と見なすのは、否定のための否定と言うべきであろう。
 
 

追記1 山本さんの晩年の講演から

私が特攻を命じられたときにはもう兄はすでに戦死しておりました。兄は特攻隊長としてレイテ沖で戦死。ですから、兄と同じ運命と、迷うことはありませんでした。
いかに敵戦車への攻撃を有効ならしめるか?もっぱらそれを考え続けていたのです。飛行機に整備、羅針盤、あるいは機関砲をはずして爆弾を余計に積むとかですね。
兄の場合もいかにして部下を一機も欠落させずに目的地に着いて、そして、全機そろって突っ込むかということに、心を砕いているという姿が日記にありました。それはたぶん、多くの特攻隊員の心境だったのではないかと思います。                                        
忘れもしません平成六年のことです。天皇陛下が硫黄島に行かれまして、「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」という感動的な御製を御作りになられました。栗林中将は死地に赴かれ、精根をこめ、地下壕を掘って、艱難辛苦に耐えて、炎熱に耐えて、戦いを続けられた。それを陛下は思いやられてのことだと思います。




追記2 特攻を "愚かな自殺行為" という人は、他の選択肢を示すべきです。

団塊の世代を中心に、特攻隊を侮蔑する人たちが少なくありませんが、そういう人たちは、1939年9月、ヒットラーの機甲師団がポーランドに侵攻したとき、怒涛のように押し寄せる独軍の戦車部隊に向かって、サーベルを振りかざして突進し、機銃戦を挑んで、壊滅したポーランド騎兵隊の果敢な抵抗も愚行だと嘲るのでしょうか。 その気概があるからこそポーランド民族は独露という2大強国に侵略を繰り返されながらも、未だに健在で世界中から一目置かれているのです

日本の若い人たちも早く、 正体不明の"平和主義者" たちが唱える無責任な "軍事忌避論" から脱して、神風特攻隊の存在が非西欧各国の日本に対する期待と信頼を支えている事実に気付くべきです。 当時の人種差別は、国際連盟で日本の人種平等決議案が圧倒的多数で支持されたにもかかわらず、議長の米国ウイルソン大統領によって却下されるほど、あからさまなものだったことや、人種優劣序列を論じた学術論文や著述が横行していたほど、当然視されていたことを知っているでしょうか。 それも知らずに、我々同朋を守るために身命を捨てた英雄達を誹謗するのは、徒らに隠れ人種差別論者を利するだけです。                      

山本さんに31年間仕えた私には、彼ら特攻隊員達が無思慮に死に急いだわけではなく、熟慮の上で同朋を守ると言う使命に殉じたのだということがよくわかります。


追記3 最後の戦中世代・・・私の戦中体験。

私の生年月日は、何と1939年12月8日です。 偶然とはいえ数字の符合に驚きます。
1939年は、ヒットラーの機甲部隊がポーランドに侵攻し、WWⅡ が始まった年です。
12月8日は、日本の連合艦隊が真珠湾を攻撃して、日米戦争が始まった日です。
昭和39年は、私が大学を卒業して富士通へ入社し、東京オリンピックが開催された年でした。

幼児の頃、夜中に警戒警報で、電灯の傘に黒い覆いを掛けたり、空襲警報で、山の手の"岡公園" まで走ったり、その帰りに迷子になったり・・・、強制疎開で電報電話局の周囲の家が取り壊されたり、最後の数ヶ月間は、渡良瀬川上流の高津戸峡の近くの農家に疎開したりしました。
疎開先の山の上からも、中島飛行機の大工場があった太田の上空を米国の戦闘機が旋回しながら爆撃したり、機銃掃射したりする様子がよく見えました。

両毛線沿いの町は、大宮、熊谷、高崎、前橋、伊勢崎の順に空襲を受け焼け野原になっていましたから、来週は、桐生、再来週は、足利の筈でしたが、そこで終戦となりました。
ホロコーストを言うなら、こういう非軍事都市の無差別焦土爆撃を真っ先に挙げないのは何故でしょう? 戦前戦中を通じて、ドイツ政府からの牽制にも拘らず、関東軍参謀長としてシベリアからのユダヤ難民の満州への受け入れを認め、日本経由での米国への脱出まで支援した東条英機を悪魔呼ばわりするような欺瞞と詭弁にうかうかと乗せられて(若しくは共謀して)、彼らのお先棒を担いでいる反日日本人の再生産に歯止めがかかりません。


追記4 軍事抜きの復興は砂上の楼閣。

国際政治の奇麗事も一皮剥けば、いまだ弱肉強食の熾烈な競争に曝されているのが現実です。 一方で平和共存を模索するのは結構ですが、同時に、それが破綻した場合の生き残り競争への備えと覚悟を持ち続けることも必要です。 人種・民族差別論者、勢力は依然として隠然たる力を温存しています。 国連の安保理常任理事国を変えることが出来ないのは、彼らが WWⅡ 戦勝国たる既得権を手放す意志がない以上、当然のことでしょう。 日本がたまたま平和であったかのごとくに見えるのは、その方が彼らにとって都合が良かったからで、それが何時ひっくり返るかも彼らの都合次第だという覚悟もしておくべきです。

歴史上、既得権の保有国・階級・集団等が、自ら進んでそれを手放した例を、明治維新における大政奉還以外には、寡聞にして知りません。
私が、生命を賭してそれを成し遂げた勝海舟、山岡鉄舟、西郷南洲の3人に敬服する所以です。

WWⅡ 以降、平和が続いたと思っているのは、気の良い日本人だけで、富士通時代に付き合いのあった元銀行家の年配のスイス人などは、打ち合わせの途中、突然、"来月から兵役で1ヶ月失礼するので宜しく・・" と当然のことのように言っていました。 私が驚いて "そのお歳で銃を担いで訓練を受けるのか" と聞いたところ、始めは私が冗談を言っているのだろうと思ったらしく、まじめに答えようとしませんでしたが、そのうち私が本気で聞いているのだと判ると、逆に相手の方が驚いて、ここだけの話だがと断った上で、具体的に説明してくれました。 要するに "戦時経済の演習(シミュレーション)" に金融専門家として参画するのだと言うことでした。 "永世中立国家スイス" は全国民が常に臨戦態勢にあるのです。 平和を維持するには、平時からそれだけの覚悟と備えが必要だと言うことです

因みに、カナダが一番警戒しているのは、米国の動向で、そのために米国要人数万人の言行をデータベース化してマークしているそうですが、カナダでさえそこまでやっているとすれば、英仏露はもとより、中国、南北朝鮮やイラン、イスラエルは推して知るべしでしょう。 それは、彼らが、集団がある方向に動きだしたら個人の善意などではどうすることも出来なくなってしまうことを良く知っているからです。

殊更に事を構えるのは愚の骨頂ですが、奇麗事の裏には、団塊の世代を中心とするナイーブな日本人には思いもよらない陥穽が潜んでいる場合が多々あります。 迂闊に同調すると、結果的に相手を利するばかりでなく、場合によっては悪事に加担することになりかねません。 それが、仮に善意に基づく行動であっても、責任のある大人の国の、とりわけ政治指導者のとるべき姿勢とは言えないでしょう。

戦争は、私の "急性大動脈解離" と同様、いつどこで何が原因で起こるか(起こされるか!)判りません。 自分は戦争が嫌いでも(私だって好き好んで急性大動脈解離を発症したわけではありません!)、相手のあることを自分の都合だけで判断しても意味がないし、ましてや決めることなど出来ないことは、最近、大国の餌食になった幾つかの国を思い起こせば 分かるでしょう。 "日本だけは特別だ" という子供じみた議論を振り回す人に、"特攻" を批判する資格が有るでしょうか。 忘れた頃にやってくるのは、何も自然災害ばかりではありません。 戦争は、敗戦国日本(とドイツ?)以外の大国にとっては、依然としてタブーでもなんでもなく、最後の手段としての重要な外交手段の一つなのです。


追記5 東京オリンピックを線香花火に終わらせてはならない。

最後に、予科練の歌、鐘のなる丘、長崎の鐘、東京オリンピック入場行進曲のすべてを作曲し、激動の時代の夫々の転機において、その時代の若者を鼓舞し続けた福島の人 古関祐而の曲を紹介して、WWⅡ世代への挽歌の締めくくりとしたいと思います。
1964 東京オリンピック行進曲

因みに、史上初の競技速報データ通信システムは、日本IBM社が担当しましたが、メインスタジアムとなった国立競技場の大電光掲示板と直径数百メートルのスタンドの全ての位置で同時に聞こえる放送システムのネットワークを担当したのは、富士通技術陣でした。 日頃から "第2次日米戦は、技術戦争なり!" を持論にしていた山本さんにとっては、大型コンピュータでの対米決戦を控えた前哨戦のようなものだったかも知れません。


追記6 戦後世代への警告・・・古代カルタゴの轍を踏む無かれ。

あの頃までの日本には、まだ "痩せたソクラテス" が少しは居ましたが、それからの50年の間に、修羅場を知らない "満足せる豚" ばかりになってしまったようで、同じ国に住んでいる気がしません。  満足せる豚が充分肥えた時、突然、屠殺される日が来ないとは限らないという懸念が、WWⅡ 世代の杞憂に終わることを祈ります。

特攻隊員の遺書に習えば・・・ノチノ ニホン二 エイコウ アレ・・・

2012年5月8日火曜日

ネット社会の匿名主義について

私は、東京情報大学で教鞭をとっていた頃から、授業の中でもネット上のメールのやりとりでも、匿名の相手には、"他人にものを言ったり聞いたりする時(とくに反論するとき)は、まず名を名乗ってからそうするのが礼儀だ" と言い続けてきた。 したがって、ブログやフェイスブックでも、そう宣言し、一貫してそうしている。

その結果かどうか知らないが、これまで 2年半の間に、このブログへの投稿者はお一方しか居られない。 その方は、とくにそうせざるを得ない事情をメールしてこられたので諒として掲載させていただいたが、その他には私宛の個人メールで拙文を支持し励ましてくれた方が(友人達は別として)お一人いるだけである。 残念ながらお二人とも私宛個人メールでもお名前を明かしてくださらないが、その裏にはそれに10~100倍する賛同者が居られるに違いないと思って今後も出来る限り続けていこうと思っている。

誤解のないようにお断りしておきますが、ご本人からの投稿の削除依頼には無条件で応じますので遠慮なく仰ってください。

以上は、個人的な問題についての話であるが、匿名について書いた序でに、もう少し深刻かつ根深い問題に触れておこうと思う。 つまり、社会的タブーに関してである。 これについて書くのは、謂わば地雷原を歩くようなもので、余程注意しないと、どこでどんなタブーに触れるか分からず、一歩間違えば虎の尾を踏みかねないので、飽くまでも一般論の枠の中での表現にとどまらざるを得ないことをお断りしておきたい。 こう書いただけでも、今後何らかの謀略組織(そもそも謀略のない組織は有り得ないのだからこの用語自体が同義反復であるが)にマークされることになりかねない。

(流石に疲れたので、以降は、よく考えてから書くことにします・・・時期不明。)

2012年4月21日土曜日

駒場のクラス会・・・今年こそはと思ったのですが。

昨日の18時から、駒場文科一類六組(独語クラス)の同窓会が、昨年と同じ飯田橋のホテルエドモントで開かれたが、幹事の堺君の報告によると、出席者は過去最低の14人だったとの事。

私と同じように、体調が優れない友人が何人かいたようだ。

昨年、出られなかったので、今年こそは是非とも出席したいと思っていたが、術後3年半にもなるのに後遺症のアップダウンが侭ならず、今週の月曜日になって遂に断念することにした。
まあ、焦らずに次回を期するとしよう。

そこで、鉄舟の
"晴れてよし曇りてもよし富士の山もとの姿は変わらざりけり"

を捩って
"出てもよし出なくてもよしクラス会むかしの友は変わらざりけり"

2012年4月9日月曜日

小公園の桜・・・花より遊びに夢中の子供達

急性A型大動脈解離発症から今月で3年半、周囲の医療関係者から奇跡的と言われる生還を果たしたのを機に、WEB自分史を書き始めてからも既に2年半の歳月が経過した。

この間、何一つ新しいことを成し遂げたわけではないが、これまで長い間、無意味だと思い続けてきたさまざまな体験に思いがけない大きな意味が有ったことに気付かされた。
後遺症の不快感は、決して生易しいものではなく、常に生還の損得勘定に付きまとわれるのを如何ともし難い。 しかし、きっとまた思いがけない縁のつながりが現れてくるに違いないと思い、それを生き甲斐にして、辛うじて生きて行く気力を支えている毎日である。

しかし、いくら考えても埒が開かないこともある。 下手な考え休むに似たり。 こういうときは、多少、無理をしてでも、散歩に出かけてしまうことにしたのが、一昨年11月だった。
今日も、少々無謀だと思ったが、今、桜を撮らなければ間に合わないかも知れないという理屈で強引に出かけてきた。

桜名所など望むべくもないので、とにかく、なるべく近くで桜のありそうな公園を回ってきた。
行き当たりバッタリの花見としては、まずまずの収穫だと自賛している。



2012年3月27日火曜日

テラスモール湘南・・・35年間のまちぼうけ

私達一家が横浜の団地から今の住所・・湘南ライフタウン(藤沢・茅ヶ崎共同開発)・・に移ってきたのは、1976年(昭和51年)のことだった。 湘南地区最後の大開発という触れ込みで、①藤沢地区・茅ヶ崎地区の一体開発、②辻堂駅前の大工場(関東特殊製鋼・・旧住友金属系列の圧延ロールメーカー)の移転と跡地の再開発、③芙蓉カントリークラブの下を貫通する大庭隧道の開通など々々、派手な計画が謳われていた。 まだ不動産バブルが最後の輝きを失う前のことだった。

その後、1979年~89年にかけての、不動産バブル崩壊、第一次金融バブルの崩壊の過程で、殆んどの計画がストップし、90年代に入って③が実現したのみで、①と②は、一向に進展を見ず、今日まで30年以上の月日が経過してしまった。 その間に子供達は成人して去り、高齢者ばかりのゴーストタウン化が進んで来た。" これがまあ終の棲家か・・" と、半ば諦めかけて居た所に、"テラスモール湘南" の開発工事が始まってからも既に3年余・・・、漸くその全貌が姿を現し始めた。

ついこの間まで、あんな殺風景な開発計画では数年でゴーストタウンになってしまう・・・ などと悲観的なことを言っていた妻や娘も最近ではすっかり宗旨替えして、折りあるごとに出かけては要らぬ物まで買い込んで来るようになった。 それと共に、その後背地としてのわが町の雰囲気も活気を取り戻し始めたようで、公園で遊ぶ子供達の姿が目立つようになったのが何よりも嬉しい。

そんな感慨もあって、この間の日曜日、来月19日に東京で開かれる同窓会に出かける予行演習の心算で、辻堂駅まで行ってきた。 夕方だったので行きはともかく帰りは寒かった。 おまけに目の前に停まっているバスが数秒後に発車してしまうのを 2度も見送る羽目になった。 千葉駅から東京情報大学行きのバスに乗っていた時にこんなことは無かった。 京成バスの親切さと神奈中バスの不親切さは、未だに変わらない。

たまには YouTube に新しい動画の一つもと思って、テラスモールの賑わいを撮ってきたが、障害老人がカメラを構えているのを見て、首を竦めて通り抜ける女性も居た。 我ながらあまりパッとしない出来だが、いずれもっと明るいうちに撮り直すことにしよう。


2012年3月11日日曜日

2011.3.11 は何の記念日となるか?

1年前の今日、相次いで同時に起こった2つ大事件発生から、今日で丁度一年目に当たると言うので、世界各地で記念式典が行われている。 この日に起こった2つの大事件とは、もちろん ①東日本大震災 および ②福島第一原子力発電所の崩壊 のことである。

このうち、いわゆる未曾有の名に値するのは、②であって①ではない。 大震災や巨大津波などは、最近の数百年間に限っても繰り返し起きており、偶々居合わせた当事者にとっては大事件だったかも知れないが、歴史的には日常茶飯事に属する。

しかし、マスコミの報道で見る限り、未曾有の災害として騒がれているのは専ら①であって、②はいつの間にか、政治・経済問題に矮小化されてしまったかに見える。 実際には、すでに被害の確定している① よりも、今なお進行中の② の方が遥かに深刻なはずなのにである。 もっとも深刻だからこそ見てみない振りをしていると言うべきかも知れないが。

②の事件については、昨年の3月13日~4月23日の間、数回にわたって、この BLOG にも書き、一部は英訳してYouTube にも投稿 しておいたので、それ以来、米・露・仏・独・中・ウクライナあたりのサイトから定期的に正体不明のアクセスが来るようになった。 この間、国内外からの反論は1件も無かったし、またこの間の私の主張に修正の必要はまったく無いと思っている。それどころか最近報道され始めた復元議事録の内容から見る限り、むしろ私の常識的判断と推測による断定的記述が殆ど的を射ていたことに驚いている。

因みに、先日、一昨年に続いて出席する心算でいた昨年4月13日の同窓会に、体調ゆえに欠席せざるを得ない旨メールを出した日付を見て、またまた驚いた。 何と、地震発生の当日の深夜(2011/03/11 (金) 0:48)だった。 また、ぐラッとゆれ始めた時は、偶々ケアマネージャーが来ていて妻と3人で今後のリハビリ計画を相談していたところだった。

以下は、昨年の3月13日地震発生の2日後に投稿した日記の全文である。

2011年3月13日日曜日
福島原発・・・国難に再び神風は吹くか?


大津波の騒ぎで幸いにも時間稼ぎが出来ているが、菅首相以下、決死の戦いが始まった。
ようやく明治以来、絶えて久しかった "国難" という言葉が最高司令官である菅首相の口から発せられた。 津波のことではない。 原子力発電所の致命傷のことである。 いま福島第一原発では、東電やメーカーの技術者や研究者が命がけで勝算の定かでない戦いを続けている。

もちろん、世の中には奇跡的成功というものがある。 彼らもそれを信じて全力を尽くしているに違いない。 しかし、それは、いったん故障した "はやぶさ" が "イトカワ" から生還するのを期待するに等しい。 もし、彼らの努力が功を奏したなら、国民栄誉賞は、彼らにこそ与えられるべきだ。

すでに、賢い人々は国外脱出を始めた。 私の親しい50代の物理学者も昨日の便で成田を発った。 たまたま前から共同研究先との約束があったからだが、仮にそうでなくても卑怯だとは思わない。 私自身は、この年で今更逃げ出す気は無いが、いまや一人でも多くの若い人には生き残っていてほしい。 終戦時に自分自身は現地にとどまり、優秀な部下を日本内地に脱出させた多くの旧日本軍将校の気持ちが痛いほどわかる。 急性A型大動脈解離からの 奇跡的生還を果たした損得勘定 の得の筆頭に挙げるべき体験だろう。

あとは、神風が吹くのをまつのみ!


At the Fukushima "GEN-PATSU" (Nuclear Power Plant), young engineers and scientists are making desperate efforts to stop the nuclear reactor.

If they could succeed in it, by some miracle like "KAMIKAZE",
they should be awarded the "Order of National Hero".

But it is far more difficult than "HAYABUSA's miracurous return to
the Earth".
投稿者 関口益照 時刻: 11:37

2012年3月1日木曜日

宮沢賢治との時空を超えた縁

一昨日の日経夕刊 "明日への話題" 欄で、住友信託銀行相談役の小山温氏が、昨年3月の東北大震災以降、国内外で宮沢賢治が注目され、「雨にも負けず」 が英訳版も含めて紹介される機会が増えた。と言う趣旨の寄稿をされていたのを読んで、突然、今まで書き忘れていたことを思いだした。

多分、大抵の日本人は、彼の名前くらいは知っているだろう。 早世した妹トシへの挽歌 「永訣の朝」 は知らなくても、「雨ニモ負ケズ」 の詩は、教科書にも載っているので 国語の時間に習った人が多いと思う。
また、彼が 法華経 を座右においていたことも、よく知られていることで、わざわざ此処で書くまでもない。

私が、是非ここで書き残しておきたいのは、彼の人生観の根底には、"" が(だけだったとは言わないが)あったということである。 私がそれを知ったのは、昭和42年(1967)10月に父が他界した後、母が桐生の家を引き払って東京の兄の家に移ってくる前後のことだったと思う。

生家に残されていた書籍類の中に、祖父が生前師事していた 曹洞宗原田祖岳老師 が拠点とした 福井県発心寺 の機関紙を見つけ、パラパラと捲って読むともなしに見ていたところ、その機関紙(名前が思い出せない)を宮沢賢治が購読していたこと、さらに何度かは知らないが寄稿していたことが記されていたのである。

果たして賢治がどこまで原田老師に私淑していたかは、知る由もないが、理論倒れの仏教学者たちに愛想を着かして駒澤大学教授の地位を捨て、一方、形骸化した永平寺の公案禅にも飽き足らず、発心寺を拠点に全国行脚していた原田老師に教えを請い、参禅した可能性は否定できない。

因みに、亡父が祖父から聞いた話によると、老師は、アインシュタインの相対性理論の登場に接し、これからは、科学者に "禅理" の解明を期待すると言っていたそうだ。 また随一の高弟と目されていた 安谷白雲老師 は、70歳を超えて尚、米国での "禅" 普及活動を続けていた。

二十歳前後の書生時代に、藤村操の死をめぐる論争に疑問を持ち、黒岩涙香に面会して議論を挑んだと言う 祖父 が、聖書から西洋哲学、果ては老荘思想にいたる遍歴の末、最後に廻りあった知行合一の傑僧に賢治が何の影響も受けなかったとは到底思えない。

2012年2月9日木曜日

故郷は緑なりき・・・忘れえぬスチール写真

日経朝刊 "私の履歴書" に、今月始めから女優の佐久間良子が登場していることは知っていたが、私は彼女の映画を見たこともなく、とくに関心を持っていたわけでもないので、記事に目を通してもいなかった。 ところが、先ほど食卓の上に放置されている新聞を片付けようとしてきちんと畳み直そうとしたところ、"故郷は緑なりき" と言う文字が目に飛び込んできた。

なぜこの、"故郷は緑なりき" と言う見てもいない映画の題名だけが目に付いたかと言うと、学生時代、何かの新聞の映画紹介欄に載っていたスチール写真の印象が強く残っていたからだ。 それは、清純そのものの女子高生が自転車で山道をこちらに向かって走ってくる所だったが、その光景に、周囲の景色とともに、私自身が高校時代、渡良瀬渓谷沿いの崖道を自転車で走った想い出と重なるものがあったからだ。
そうか、あの時の写真で見た女子高生は佐久間良子の少女時代の姿だったのか。 そう思った途端、今まで一度も美人女優として意識したことのなかった彼女に、無性に好感が湧いてきた。

早速インターネットで検索してみると、映画が実現するまでの紆余曲折やスチール写真の紹介記事は沢山出てきたが、私の記憶にある自転車に乗った美少女の写真は一つも見つからなかった。

2012年1月31日火曜日

元上司の訃報 ・・・山本卓眞さんからの宿題

昨日の新聞で、新入社員時代の元上司、山本卓眞富士通名誉会長の死去を知った。
去る1月17日に肺炎で急逝されたらしい。
私達の結婚式で主賓として、祝辞を頂き、夫婦でご挨拶に伺った方だから、当然、葬儀に参列しなければならないところだが、この体ではそうも行かない。 いずれ、騒ぎが収まってからご命日を選んで、墓参したいと思う。菩提寺が護国寺だと言うことは、20年くらい(?)前に、母堂フジヱさん の葬儀に参列した時から知っている。

ここでは、上司としての山本さんに褒められた数少ない思い出について書いて置くことにする。
入社4年目の1967年頃だったと思うが、私達は、社内コードORBS(online realtime banking system)なる社運をかけたプロジェクトに取り組んでいた。 一旦、日本IBM社に決定していた第一銀行普通預金システムのデュープレクス構成のうちオンライン側の一台を、富士通(古河鉱業直系)と第一銀行は運命共同体であるとの理屈でキャンセルさせ、全て国産技術で稼動させようと言う、無謀ともいえる壮挙だった。

それに先立つ半年の間、丸の内仲通りに面した古河総合ビルの1階ショールームに陣取った我々数人のSEは、昼夜兼行でモデルシステムを完成し、主要銀行の事務部門の幹部を招いたデモを成功させていたが、それは飽くまでもデモシステムに過ぎず、①性能や②信頼性、さらにはダウンした時の③リカバリー方式などは、暗中模索の状態だった。このデモプロジェクトで私が担当したのは、普通預金業務処理の全てを、数キロバイトのプログラムで動かして見せることだった。 主記憶装置のキャパシティー不足を磁気ドラムで補ったり、一つのビットを数通りに使い分けるなど、今考えると将に曲芸のようなプログラミングだったが、それも上記の①②③等を二の次にしたから出来たのであって、とてもそのままでは実用に耐えるものではなかった。
しかし、兎に角、我が社は、この見掛け倒しの張りぼてで第一銀行オンライン普通預金システムを受注し、1年後には首都圏100店舗で稼動させなければならないと言う、絶体絶命の瀬戸際に立たされることになった。

課題はハード、ソフトに渡って山積していたが、人々の注目は専らハードに集まっており、①②③のどれが欠けても実現しないことを真に分かっているものは、社内でも山本卓眞以下数人しかいなかったと思う。 これ等の難題のうち、私が担当したのは主として①と③だったが、①では "排他制御" と "応答時間"、③では、最近の用語で言えば "トランザクション管理" と "データのインテグリティー" に関して、国際的に確立された方式がなかった。 私達は、この2つの課題に対して、当時としては、最も進んだ解を見出したと思っている。
当時、クレジット・オーソリゼーション・システムで先行していた米国に前例が無かったのは、クレジット・オーソリゼーションでは、リアルタイムに残高を確定する必要が無く、即時更新を伴わない、所謂 READ ONLY SYSTEM しか無かったからである。

彼ら、米国勢からすれば、自国の1割にも満たないアジア市場の中でも、豪州やフィリピン・香港に比べて更に遅れている(と彼らは思っていたらしい)日本とか言う特殊な国の銀行の言い分など一顧だにも値しなかったのだろう。 日本IBM社の社長だった椎名武雄氏が、日頃から日本IBM社内で "Sell IBM in Japan, Sell Japan in IBM" をスローガンにして社員を鼓舞していたという気持ちが良くわかる。

当時、日本IBM社のSEが、虎の威を借る狐の如く傲慢だったことは、某銀行の事務部員からも聞いたことがある。 例えば、マニュアルがいただけないかと言う彼らの要請に対して、部厚い英文のドキュメントを何の説明も無く投げ与え、日本語の資料が欲しいと言うと、「何だ、英語も読めないのか・・・と言わんばかりの表情で一瞥しただけで、無視された」 と聞いたことがある。
何だか何処かの国との政府間関係のようだと思うのは私の思いすごしか・・・・。

③については、残念ながら根拠となる資料が手元にないが、①に関しては、山本さんに褒められたこともあって、未だに手元に残っているので、その一部を披露することにした。 褒められたと言っても文系社員としては、という前置きがあり、それに続いて本格的な理論モデルのヒントを与えられたにも拘わらず、忙しさを理由に真面目に取り組まなかったことが、ずっと気にかかっていたが、若しまじめにやっていたら今頃は国際学会で大きな顔をしていられたかも知れない。








お役所からご指導を受けた!?・・・その2

昨年12月26日の日記で触れた掲題の件について、昨日(2012.1.30)に当のお役所から電話があり、修復後の外壁の色が協定に違反しているといってきた。 何でも一部の住民から(誰からかは言ってくれない!)クレームが来ているのだと言う。 私は電話に出られないので妻が応対した。

当方としては、事前に当局へ連絡し、ご指導をお願いしていたのに、それに対して何の応答も無く、工事完了と同時にクレームを付けられて、それに応じなければならない理由は全くないと言い返し、クレームの申立人とその要件を文書で示すよう要請したが、言を左右にして一向に応ずる気配がない。 文書の件は1年前の隣家とのトラブルの際も申し入れてあるのだが、それに対しても梨の礫である。 証拠を残さず越権行為で相手に泣き寝入りさせる時の不要(不良?)役人の常套手段だということは、始めから分かってはいたが、改めて呆れ返った次第である。

押し問答の末、先方は、「行政としては、これで指導責任を果たしたことにする。従わないなら本庁に上げる・・」と言うので(脅かした心算かも知れないが)、「どうぞ」と言って電話を切った。
とにかく、彼らの保身ぶりは見事と言えば見事である。 1年も前から私の病状を知りながら、文書での意見交換の要請を無視し続け、今回も電子メールでの連絡要請に全く応えようとしないのだから、お上意識と責任逃れの習性も骨がらみというしかない。
たいていの場合、業者や組織人は、いわゆる "別件逮捕" の嫌がらせを恐れて、言うことを聞くので、それが習い性と成っているのだろう。

さて、次はどう言ってくるか見ものである。 最近は裁判で行政側が負けることがあるので、大禍なく任期を終わりたいお役人としては、この程度のことでそんなリスクは冒さないだろう。
となると、"一部住民" が業を煮やしてマスコミに駆け込むかも知れない(行政当局の言)が、それならそれで、相手がはっきりするから堂々と議論すればよいと思っている。