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2011年1月25日火曜日

孔雀と雀

今日の日経夕刊コラム 「十字路」 に、法政大学教授 渡部亮氏が、"クジャクとスズメとの対話" と題して面白い文章を書かれている。 詳しいことは、記事そのものを読んで頂くことにするが、要は、人間には、孔雀のように目立ちたがる習性と、雀のように周囲と群れたがる習性が同居しており、欧米では前者の要素が強く、日本では後者の要素が強かったが、最近は混然としてきたという趣旨である。

なぜ、こんな話を持ち出したかと言うと、この BLOG で21日に採り上げた"合ハイ"、および23日に採り上げた "WEB自分史" のはやる理由をズバリ説明してくれているからだ。 つまり、"合ハイ" の動機の大部分が男女の出会いではなく、同世代の共通体験にあったことは、ここで言うスズメの習性以外の何物でもなかったし、"WEB自分史" 公開動機の殆どすべてが、自己顕示もしくは自己の存在証明であることは、ここで言うクジャクの習性そのものを物語っている。

渡部氏には、じつに旨いタイミングで投稿していただいた。 他所ながらお礼申し上げるしだいである。

2011年1月23日日曜日

Web自分史の流行について

娘の話では、最近、米国で、いわゆる WEB自分史 の公開が流行り始めているそうだ。 自分史そのものは、日本でもここ20年くらい前からよく贈られてくるようになっているが、米国で始まっているのは、ホスピスなどの生きがい対策の一つとして、それをWEB上で作成させ、さらにTVで公開することらしい。 その意味では、私が死線から生還して後、1年経った昨年11月から書き始めた HP 「一期一会」・・Our Eternal Moment も、とくにTVでの公開を意図したものではないが同じようなものだ。。

そこで、考えるのは、一体なぜか、そして、なぜ今なのか? ということだ。

・・・ 疲れたので中断する。
・・・
・・・ 頑張って書いてしまおう。

誰でも自分がこの世に生きた証を残しておきたいと願う。 湯川秀樹は、氏の「天才の世界」の中で、啄木、 ニュートン、空海、ゴーゴリを例に採り、その強烈な自己顕示欲を論じているそうだが、こうした天才たちを引き合いに出すまでもなく、誰にでもそれは有る。 まして、社会的にそれなりの功を遂げた(心算)にもかかわらず、世に名が出ることなく終わろうとする者が、何らかの手段でこの世に生きた証を残したいと願うのは、未練がましくも浅ましいことではあるが、至極尤もなことであろう。
勿論、生前すでに名を成している有名人は、自分史などわざわざ書くまでもなく、周囲が抛っておかないから問題ないが、そこまで行けなかった人々にとって、自分史の執筆と公開は唯一の自己主張手段となる。 私自身、そのことを否定する心算はない。
たとえ、それが、ささやかな自己満足の手段に過ぎなかったとしても、世の中には、将来いつの日にかそのどこかに共感してくれる人々が現れるかも知れない・・・そう思うだけで嬉しくなるではないか!
http://byoshonikki.blogspot.jp/2011/02/2011227.html
では、なぜ米国で今になってWEB上での公開が流行りだしたのかと言えば、日本より、10年早くPC時代に入った米国のPC世代が愈々老境に入り、死後を意識し始めたからに相違ない。 日本では、私が在職していた "天下の東京情報大学" を含め、私の年代で PC を日常的に使いこなす人を見たことがないが、米国の70歳老人の多くは PC リテラシーを持っている。
彼らの中で自己顕示欲の満たされない人々が動き出したに違いない。 10年後の日本が想像できるというものだ。

断っておくが私がここで言おうとしていることは、あくまでも真の意味での WEB自分史 であり、業者やマスコミが介在する事業としての自分史のことではない。 ましてや、履歴書やエントリーシートが単に "自伝" の体裁をとっただけのものなど論外である。
米国民謡 "When you and I were young, Maggie." の歌詞の一節 " And the tials of life nearly done." の老境に有る人々が自分自身でPCをたたいて綴るラストメッセージでなければ、真の意味での "WEB自分史" (Composing an Autobiography Using a Web) の名に値しない。

2011年1月21日金曜日

"合ハイ" の思い出

昨年の9月、新聞記者から取材の依頼があったのを機に、改めて社会現象としての合ハイの意義を考えてみた。

合ハイの登場した背景

1、男女出会いの場としての性格
①見合いの持つ社会的承認機能(氏素性の確認)
②ダンスパーティーの持つロマンチックで新鮮なイメージ(①については?で見られていた。)
の両者を併せ持つ健全な新しい風俗として期待された?
しかし、いずれの機能も中途半端だったため、多くのいわゆる良家の子女や有為の青年を結びつける力がなかった。
要するに、単に男女が出会う場は、いくらでもあるが、結婚相手となりうる男女が出会う仕組みは、人為的に条件を整える必要があると言うことだ。 その意味で、かつての "お見合い" に変わる強力な仕組みは未だに登場していない。
これが成立するためには、差別化されたグループとその内部でのプライバシー公開が必須であり、これをクリアーしない限り安定した婚姻率の改善は不可能と言えよう。

2、同世代の共通体験の場としての性格
江田五月君が安保闘争に参加した動機の一つ もそれだった。(と昨年1月、新聞インタビューで答えている。) 私が参加した動機も同じ。 クラスの大半が3回の合ハイの何れかに参加したのもそうだったに違いない。
・・・主だった連中が参加するようだから行ってみるのもわるくないか!

「同世代の共通体験」 の一端を担いたい・・・
その気持ちが多くの若者の心を捉えたのだろう。。