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2013年4月19日金曜日

12回目の駒場のクラス会・・・今年で3年連続の欠席

昨日の18時から、駒場文科一類六組(独語クラス)の同窓会が、昨年と同じ飯田橋のホテルエドモントで開かれた。

3年前に病後1年経ったところで張り切って出席したものの、その後の回復が遅々として進まず、2年続けて欠席していたので今年こそはと意気込んでいたのだが、3月になっても東京往復と夜の会合をこなす気力が涌かず断念せざるを得なかった。

幹事の堺君に、"今年はまだ無理だが来年以降も諦めたわけではない" 旨、返信しておいたので、一応、今後出席可能性のある者数名のうちには数えてくれているようだ。因みに去年は14名で最低記録を更新したが、今回は18名にまで回復し、旅行中の者まで入れれば、次回以降も20名位は見込めそうだとあった。

それにしても、去年の写真では流石に憔悴の色を隠せなかったかに見える江田君や、数年前に舌癌の手術をしてやせ細って見えた石川君の矍鑠たる姿には驚いた。この調子では白寿を達成する者が何人も出そうだ。他にも何年かの闘病生活を乗り切って元気に顔を見せている者もおり、我ながらこれしきのことで愚痴をこぼしているのはだらしがないと反省させられた。

尤も、何年か前に、本邦100名山の踏破を完遂し、その後は、そのうちでも気に入った山(わが赤城山も合格したようだが)を選んで気楽に2度目の登山を楽しんでいると言う下田君(前列左端)の域に達する者はいそうもないが・・・。


2013年4月17日水曜日

江戸城無血開城・・的矢六平衛の目的は何だったのか?

この10日あまり、固唾を呑んで最後のどんでん返しを期待していたが、結局、無理のない象徴的な幕切れとなった。
これ以上書いたら確かに史実に抵触し、物語り全体が空疎なものになってしまったろう。
徳川幕府300年の武士(道)に対する憧憬と惜別の辞として、多くの読者の胸に忘れがたい余韻を残したに違いない。 

しかし、的矢六平衛の行動は一体何を象徴していたのだろうか。
それは、単なる禅譲の儀式などではなく、若き明治帝を真の武士道の継承者にしたことを意味すると考えるのが妥当だろう。
そして、史実によればそれを実際に成し遂げたのは、西郷隆盛と山岡鉄舟の二人だった。
余談だが、薩摩屋敷での西郷との会見に臨んだ幕府側使者団に海舟の名はない。
同席したことを示す記録もない。海舟自身が"氷川清話"の中でそう語っているだけである。
さらに言えば、無血開城において、勝が果たした役割は、徳川慶喜→高橋泥舟→山岡鉄舟で決断した策を承認し・支援しただけである。 
維新後の論功行賞で鉄舟が何も申請しないので、その理由を聞かれ、"勝さんが自分がやったと書いているのに恥をかかせることになるから" と言ったのは有名な話だ。
もちろん、勝もそのつもりでいろいろ画策していたはずだから、嘘を書いた心算はないだろう。
しかし、使者を決めかねて、思案に暮れているところへ現れた山岡という初対面の旗本が、只者ではないことを見抜き、渡りに舟と飛び乗ったに過ぎない。 その辺が海舟のずるいと言うか要領の良いところで、"・・・名もいらず" という鉄舟とは対照的である。
尤も、海舟は生涯、西郷と鉄舟に対する賛辞を惜しまなかったし、西郷も鉄舟も元々名利に関心のない人達だったのだから我々俗人があれこれ論うのは控えるべきだろう。 
特筆すべきは、二君に仕えずと言って新政府への任官を固辞していた鉄舟を説得して10年間(明治5-15)の約束で明治天皇の侍従に引っ張り出したのは、西郷であったということだ。
若しこれが無かったなら、明治天皇は、維新の元勲と称する野心家達の権謀術数に振り回され、ドナルド・キーンが大著「明治天皇」の中で賞賛しているような、仁慈と慧眼を併せ持つ不世出の帝王にはなり得なかったろう。
そう考えると、史上類のない偉業を成し遂げ、江戸、ひいては日本、さらに非白人諸国を救った真の功労者は、西郷隆盛と山岡鉄舟の二人であったと言わざるを得ない。 
一方、機を見るに敏な海舟は、枢密院顧問という政府の中枢にありながら、征韓論、西南の役を巡る権力闘争には距離を置いて沈黙を守っていたが、西郷が征韓論の濡れ衣を着せられ、さらに西南の役で賊軍の汚名を蒙った後は、一転、彼の名誉回復に尽力し、遂には靖国神社への合祀こそならなかったが、私邸の近くに留魂碑を建立しているくらいだから、明治帝と西郷、鉄舟の間に余人には窺い知れない強い絆があったこと、そしてそのことを最も深く理解していたのが海舟だったこともまた疑う余地がない。
氷川清話によれば西南戦争の間、勝は旧幕臣の暴走を抑えるため水面下の工作に奔走していたそうだ。 
因みに西郷は征韓論など唱えたことはなく、自ら渡韓し、烏帽子・直垂の礼装で朝鮮王朝の顕官と会見し、西洋列強の前で東洋人同士が相争っている余裕はないことを訴えると言っただけである。
まさに、鉄舟が単身、駿府へ赴いたときと同じことを自ら朝鮮政府を相手にやろうとしたのだ。
それを、恰も軍勢を引き連れて朝鮮征伐に乗り込むかのように喧伝し、征韓論者に仕立て上げて追い落としたのが維新政府の野心家(実は征韓論者)達で、彼らの本音は西郷の追い落としと天皇の傀儡化、そして朝鮮国内の反日勢力の温存による征韓論の正当化だった。 
もし、西郷の渡韓が実行されていたら、朝鮮王朝が我が国を見る目も少しは変わっていたろう。 朝鮮王朝の中枢にも、国際情勢に通じた具眼の士はいたはずだ。
しかし、彼らと雖も我が国が礼を失した態度で臨んだため、朱子学の礼式に拘る朝鮮国内の侮日世論に同調せざるを得なかったに違いない。
その限りにおいて、今日に至る韓国の反日歴史認識の元凶は彼等明治維新政府の野心家達だったと言っても過言ではない。 
これを機に西郷は野に下るが、元々彼に野心など有るはずも無く、その後に起きた西南戦争も政府転覆を企図したものなどではなく、政争に明け暮れるばかりでなく、天皇をつんぼ桟敷において国政を壟断し始めた元勲達への死を賭した警告だったと考えるべきだ。 
しかも、この間の天皇や勝、山岡の言動には西郷の真意に対する疑念は全く無かったばかりか、むしろ、お互いの立場で相呼応した行動を取っていた節すらある。
このことに関して直接言及した資料は寡聞にして知らないが、幾つかの資料に見える彼らの言動が、そう考えることによって矛盾無く理解できることは確かである。 彼らの到達した無私の人格は、いわゆる先進諸国のヒューマニズムや漢民族の倫理道徳の概念を遥かに越えている。
明治以来何人かの日本人が禅や武士道を英語で紹介してきたが、彼等自身の理解の水準がその域に達していない上、西洋人に迎合した子供だましの解説しかしていないので、未だに幕末の傑出した日本人の想像も付かない精神性が世界の常識になっていない。
それどころか、当の日本人からも忘れ去られようとしている。 
最近では、村上春樹のバルセロナ演説が持てはやされているが、新渡戸稲造を超えたとは思われない。
三島由紀夫が欧米の作家達に説明しても理解されないことに絶望した理念の遥か手前で、”西洋人向けの日本人論” を語っているだけである。
要するに、現代国際社会における”世界認識” の西欧流デファクト・スタンダードが余りにも単純すぎて明治期までの傑出した日本人の ”世界観” を理解できないのだ。 
サミュエル・ハンチントンが、「文明の衝突」 において世界の七大文明の一つに、日本文明を掲げた理由を訝る向きが多いが、彼の該博な学識と洞察力は、日本社会の核心に他のどの社会の基準でも量れない何物かが存在することを見抜いていたのだろう。
私も、長い間、このことをどうやって世界の常識にしたものかと思案してきた。
しかし、どんな外国語の達人が解説しても、彼らの言語で語っている限り、不可能だと言うことに気が付くのに左程時間はかからなかった。要するに、彼らが自ら禅や武士道を日本語で学び、実践するしかないと言うことだ。
なにしろ鉄舟自身が禅は難しいからと言って周囲には勧めず、夫人にも浄土宗を勧めていたというくらいだったのだから。
日本精神が理解されない理由・・・それその特殊性にではなく、その普遍性にある。
2013年2月25日月曜日の日記 「人生の最終章を迎えて改めて思うこと」 の中で 「人類における最も深遠な思考が英語で語られていると言う証拠があるなら是非見せて欲しい・・云々」 と書いた所以である。 
的矢六平衛と共に失われたものが如何に大きかったか、思い半ばに過ぎるものがある。

2013年4月4日木曜日

江戸城無血開城・・的矢六兵衛の人物像は山岡鉄舟-α!

2013/01/24の投稿 浅田次郎の描く江戸城無血開城・・謎の旗本、的矢六兵衛」 の項には、すでに180件ものアクセスが集中し今だに衰える気配がない。 このブログの1つの項目へのアクセスが3桁に達することはあまりない。 私に限らず無数の読者が浅田氏の手の上で踊らされている・・と言うより、謎解きを楽しんでいるのだろう。 勿論、私もその一人である。

そこで、これまでに、明らかにされた事実(?)を整理してみた。
①幕末から明治にかけて壮年期にあった比肩する者のいない人格の持ち主。
②勝も西郷も、さらに、幕閣の重臣や公家たちまで、怪しまないどころか、陰に陽に支援している。
③主戦派である土佐の板垣や長州の大村、木戸に対しては、何を言われても動ずる気配がない。
④幕府側でも殆んど顔を知られていない。
当々・・・。

もし実在した人物で、そのように見事な侍がいたとすれば、なおかつ、その妻女の言動を合わせて考えれば、思いつくのは、言わずと知れた江戸城無血開城の陰の立役者、彼の山岡鉄舟しかいない。
勝や西郷らが、無血開城での最後の混乱を抑えるための要石として送り込むには、余人を持って替えがたし、という結論に達したとしても不思議ではない。
西郷が鉄舟の人格に感嘆して海舟に語ったと言う 「命もいらず名もいらず・・・鉄舟一人を持っただけでも流石に徳川家は偉いものだ」 という人物評そのままの言動である。 六尺豊かの長身(188cm)だったことなど出来すぎである。

後に、駿府に、身を引き、旧幕臣の生計を憂慮して、富士の裾野の開墾を発案し、かねてから昵懇の清水次郎長に協力を要請したこと、西郷の懇請で若き明治天皇の養育係りに召しだされた際、阿諛追従に奔走する取り巻きを尻目に、少しも阿ることなく身をもって範を示し、かえって明治帝から絶大な信頼を得たこと、死期を悟るや斎戒沐浴して皇居に向かって結跏趺坐し、別れの挨拶に立ち寄った海舟が辞去して間もなく絶命、死後も姿勢を崩さなかった-坐脱というそうだ-こと等々、彼の器量と人格を伝える記録は枚挙に暇がない。
作家の構想力は我々の浅知恵を遥かに越えたところに有るのが普通だから、最後の種明かしは上記のように誰でも思いつくようなところには無いだろう。 しかし、的矢六兵衛の人物像を設定するにあたって、浅田氏の念頭にあった 「ラスト侍」 の一人に 剣・禅・書 の達人、山岡鉄太郎(鉄舟)がいたことは確かだ。

いわば、 江戸城無血開城・・仮想の立役者」 とでも言うべきか。