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2013年4月4日木曜日

江戸城無血開城・・的矢六兵衛の人物像は山岡鉄舟-α!

2013/01/24の投稿 浅田次郎の描く江戸城無血開城・・謎の旗本、的矢六兵衛」 の項には、すでに180件ものアクセスが集中し今だに衰える気配がない。 このブログの1つの項目へのアクセスが3桁に達することはあまりない。 私に限らず無数の読者が浅田氏の手の上で踊らされている・・と言うより、謎解きを楽しんでいるのだろう。 勿論、私もその一人である。

そこで、これまでに、明らかにされた事実(?)を整理してみた。
①幕末から明治にかけて壮年期にあった比肩する者のいない人格の持ち主。
②勝も西郷も、さらに、幕閣の重臣や公家たちまで、怪しまないどころか、陰に陽に支援している。
③主戦派である土佐の板垣や長州の大村、木戸に対しては、何を言われても動ずる気配がない。
④幕府側でも殆んど顔を知られていない。
当々・・・。

もし実在した人物で、そのように見事な侍がいたとすれば、なおかつ、その妻女の言動を合わせて考えれば、思いつくのは、言わずと知れた江戸城無血開城の陰の立役者、彼の山岡鉄舟しかいない。
勝や西郷らが、無血開城での最後の混乱を抑えるための要石として送り込むには、余人を持って替えがたし、という結論に達したとしても不思議ではない。
西郷が鉄舟の人格に感嘆して海舟に語ったと言う 「命もいらず名もいらず・・・鉄舟一人を持っただけでも流石に徳川家は偉いものだ」 という人物評そのままの言動である。 六尺豊かの長身(188cm)だったことなど出来すぎである。

後に、駿府に、身を引き、旧幕臣の生計を憂慮して、富士の裾野の開墾を発案し、かねてから昵懇の清水次郎長に協力を要請したこと、西郷の懇請で若き明治天皇の養育係りに召しだされた際、阿諛追従に奔走する取り巻きを尻目に、少しも阿ることなく身をもって範を示し、かえって明治帝から絶大な信頼を得たこと、死期を悟るや斎戒沐浴して皇居に向かって結跏趺坐し、別れの挨拶に立ち寄った海舟が辞去して間もなく絶命、死後も姿勢を崩さなかった-坐脱というそうだ-こと等々、彼の器量と人格を伝える記録は枚挙に暇がない。
作家の構想力は我々の浅知恵を遥かに越えたところに有るのが普通だから、最後の種明かしは上記のように誰でも思いつくようなところには無いだろう。 しかし、的矢六兵衛の人物像を設定するにあたって、浅田氏の念頭にあった 「ラスト侍」 の一人に 剣・禅・書 の達人、山岡鉄太郎(鉄舟)がいたことは確かだ。

いわば、 江戸城無血開城・・仮想の立役者」 とでも言うべきか。

4 件のコメント:

  1. 鉄舟との縁
    ・終戦前後、生家の手洗いの書棚にあった維新言行録(落紙替わり!)で、西郷との会談の件を読んだ記憶がある。
    ・父から、いつも二人の人格の高潔さを聴かされて育った。
    ・鉄舟が西郷との会談に臨むため大小を借りた幕臣時代の親友関口隆吉(初代静岡県知事)との縁戚関係は聴いていない。私の先祖(館林藩郷士)には幕臣(弓術指南)に取り立てられたものがいたそうだが、確かな記録は残っていない。
    ・2009年6月まで四期にわたって静岡県知事を務めた石川嘉延君とは駒場のクラスメートだが、このルートでも今のところこれと言った縁は見つかっていない。
    ・ただ、彼の任期中に母の末妹(館林出身)が静岡県看護協会の会長を務めたことがあること、私が富士通時代危機に陥った二つのプロジェクト(静清信金、三菱銀行)がいずれも静岡県に関係していたことなど、妙に静岡県に縁が有り、今後、何かの繋がりが見つかりそうな予感はある。

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  2. 2016年6月6日現在
    900件を超えています。

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    1. 2017年1月1日現在
      1000件を超えました。

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  3. 祖父が参禅した原田祖岳老師の高弟で父母が戦前親しくお付き合いしていた安谷白雲老師の出生地が静岡県清水町だと言うことを三宝教団のサイトで知りました。
    http://oureternalmoment.web.fc2.com/routs/chichi.htm
    清水は鉄舟が次郎長の侠気に感じて壮士の墓の揮毫を送った因縁の地です。
    愈々奇縁が近づいてきたような気がしてきました。

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