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2010年2月28日日曜日

帰去来の辞(その2)

母校桐生高校の同窓会にリンクしていただいたのを機に、50年のブランクが一気に縮まったような気がする。先日も1年後輩に当たる木本氏から懇切な手紙をいただいた。
氏は桐中・桐高100年史の編纂に当たっておられるが、私たちが卒業した直後の昭和33年の火災で学籍簿を始め、20年代末以降の一切の書類が消失してしまったため記録集めに四苦八苦しておられるそうだ。

・・でも人生ってそういうものですよね・・・

私ももう少し元気になったら桐生にはせ参じてお手伝いするつもりだが、さしあたりは、在桐の同級生で年の割りに矍鑠としている連中に発破をかけることにした。

以下は、同窓会諸氏への呼びかけです。

思いつくまま強力なサポーターになってくれそうな方々の氏名をあげさせていただきます。
私からも極力連絡を取りますが、それにかまわず事務局のほうからどんどん連絡を取ってください。
そのさい、関口益照から紹介されたと言っていただいて結構です。
四の五の言う者はいないと思いますが、もしいたらご連絡ください。

33年桐高卒
野球は、甲子園に行くことすらできなかったが、東大には4人入った。
東大に入るほうがどう考えてもやさしい。
事業で成功している者も多い。

大島 宏周 大島会計事務所(桐高同窓会会計監査担当役員)
小倉 基義 赤城グループ会長(33年卒同窓会燦燦会代表)
        
サポーター
木村俊一  桐生法人会会長:西中時代の同級生(⇒慶応普通部)
        数年前彼の肝煎りで桐生法人会総会で講演した。
      
        
ここにあげた人たちは、私と違って顔の広い行動的な人ばかりですから、きっと力を貸してくれるだろうと思います。前に会ってから大分年数がたっているのでそれがいささか気がかりですが、今年の年賀状で見るかぎり、私よりはずっと元気そうです。

2010年2月24日水曜日

人生の最終章

『人生の最終章 』 とは、東大大石泰彦ゼミの畏友、片山直輝君の見舞状にあった言葉で、私は大いに気に入っている。
ところで、お互い『人生の最終章 』 を迎えると何らかの感慨が湧いてくるものだ。
私の場合は、思うこと>やりたいこと>やれること となるが、体調が良い時には、取敢あえずやれる事に挑戦してみる今日この頃である。

というわけで、先日、近くのスーパーの中に開店した古書店に行ってみた。小さな個人経営の店だが若い店主の好みか年寄りの客層の好みか知らないが、わりに年寄りの私の関心を引くものが多く、思わず手持ちの現金や持ち帰る体力をオーバーしてしまい、名前と住所を告げて預かってもらう羽目になった。

見つけた本: 舛添要一:『母に襁褓をあてるとき―介護 闘いの日々』

見つからなかった本: 手塚治虫:『メトロポリス』

2010年2月19日金曜日

油蝉の鳴き声

飽くまでも雑感(よしなしごと)である。

油蝉の鳴き声とモーツアルトのトルコ行進曲の一部が似ている!

もうかれこれ50年以上前から、そんな気がしてきたが人に向かって言ったことは無かった。しかしこれは真面目な話である。
油蝉の鳴き声と言っても鳴きはじめや鳴き終わりのジージーというところではなく、羽と共鳴器を思いっきり広げて絶好調で鳴り響かせているときの声である。こと虫の鳴き声に関しては世界に冠たるわが日本語であるが、不思議なことにこの最もポピュラーな鳴き声の擬声語を聞いたことが無い。ならば自分がと子供のころから考え続けてきたがどうしてもピッタリの言い方が見つからなかった。
またトルコ行進曲と言っても最後の方のほんの一小節くらいの部分である。
らんらんらんらんらーん ららーん ららーん ららんらららん

こう書いてもいかにも歯痒いので、双方の似ていると思う部分を実際の音で比較してみたいが、適当なMIDIファイルを準備するのに一寸時間がかかりそうなので、取り敢えず「問題提起」だけしておくことにする。

同病の著名人たち

昨日の日経に載っていた週刊誌の広告で、作家の立松和平氏が去る2月8日、解離性大動脈瘤で死去したことを知った。氏には道元田中正造に対する関心を共有することで以前から親近感を抱いていたので、ぜひ一度会いたいと思っていたが、それも果たせずに終わってしまった。

私の『急性大動脈解離』と氏の『解離性大動脈瘤』の異同を述べれば限が無いが、要するにいったん『大動脈瘤』という瘤状態を経由するか否かの違いだと考えれば当たらずとも遠からずである。
いずれにせよ発端は何らかの事情(私の場合は未だに原因不明)で大動脈の中層に動脈血が流れ込むことによって発症する。激痛を伴い、数時間内に死亡するのが一般だそうだが、私の場合幸か不幸かその記憶すら無い。

この投稿も終わらぬうちにテレビのニュースが、“必殺仕事人”こと俳優の藤田まこと氏の訃報(注)を報じていた。こうして大動脈瘤や大動脈解離と言う疾患が俄かに有名になるのを喜んで良いものか、複雑な気持ちである。

大動脈解離ではないが、同病ということだけで言えば、天皇陛下とも『前立腺癌』の全摘手術を敢行した経験を共有する。畏れ多いことであるが、若輩の私のほうが2年ほど先輩である。

(注: 直接の死因は大動脈瘤破裂と報じられているらしいが、TVニュースを小耳に挟んだだけなので詳しいことはご本人の家族から何か異議のご連絡がない限り、ここに書き加えるのは差し控えたい。)

2010年2月16日火曜日

帰去来の辞

帰去来夸 田園将蕪胡不帰
(かえりなん いざ でんえん まさに あれなんとす)

病気とは直接関係ないが、帰心をそそる出来事が相次いだので、ぜひ書いておきたくなった。

その1
今朝の日経の文化欄に、群馬県館林市渡良瀬村の広瀬さんが館長を務める田中正造記念館のことが載っていた。 渡良瀬村下早川田の雲龍寺は、私の母の実家(増田家)の菩提寺であり小学生時代に何度か迎え盆や送り盆のとき渡良瀬大橋をわたって行ったことがある。
その2
今日、夕方5時ごろのNHKテレビで、熊谷市と利根川の対岸にある群馬県千代田町を結ぶ渡し舟が紹介された。 千代田町萱野は父方の祖父の郷里であるが、対岸の熊谷市俵瀬は祖母の実家があった村である。 祖母の実家のことはずっと気にはなっていたが、行ったことも無く、ただ熊谷の在としてしか聞いていなかった。
まさか利根川を挟んで対岸にあった事実上の隣村だったとは・・・・・
その3
昨日、私のホームページを母校桐生高校の同窓会ホームページにリンクした。長年の念願が叶って嬉しい。

人生の終わりに近くなって急に思いがけないことが実現するとは・・・
いよいよ死期が近づいているのかも知れない。
急がなくては・・・
しかし、いったい何を急ぐ必要があるのか・・・

2010年2月14日日曜日

旧友の訃報

先日、小学校4~6年生のとき同じクラスで1,2を争う美少女だった沼尻(旧姓松本)芳枝さんのご主人から電話があり、奥様の芳枝さん(我々小中学校時代の悪童たちは皆ヨシエちゃんと呼んでいた)が、名古屋のコンサート会場でご子息(沼尻竜典氏の指揮するオーケストラの演奏中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった と伺った。まだ電話に出られない私は、妻からのまた聞きで想像するしかないが、どうも心臓発作だったらしい。WEBの挿話その2…で紹介した阿部君が一緒だったと言うからいずれ詳しいことは彼から聞けるだろう。しかし、私のような憎まれものが助かり、彼女のような人気者が亡くなるというのは、佳人薄命というか何とも理不尽な運命のいたずらである。
小林博士夫人の言われたように、まさに 「・・でも人生ってそうiいうものですよね・・・」心からご冥福をお祈りします。

芳枝さんには、中学卒業以来、25年くらい会ったことが無かったが、40歳を過ぎた頃、同級の悪友が渋谷(後赤坂に移転)で経営するカラオケバー(のんのん)で年1回の同窓会が開かれるようになってから、その席で会う機会があった。しかし、1995年に千葉の大学に移ってからは、東京を素通りすることが多く、同窓会も欠席続きで一度も出席していない。
大学もあと1年だからそろそろまた同窓会に顔を出してみようかなと思い始めた矢先の一昨年11月に突然倒れることになった顛末はすでに述べた。
4ヵ月後の去年3月に退院したものの、過去の記憶があやふやのため、とりあえず名簿と言う名簿を引っくり返して関係のありそうな方々宛に詫び状兼年賀状を出したところ、思いがけない方々から連絡をいただいた。沼尻さんもその一人である。
沼尻芳枝さんのご主人にお会いしたことは無いが、ご子息の英姿と活躍ぶりは妻や娘のほうが遥かに詳しい。まことに羨ましい限りだ。

お互いの家は100メートルも離れていなかったが、群馬県は男女別学なので高校時代の彼女の様子は知らない。しかし、その美少女ぶりは想像できた。
というのは、私たちが高校3年のとき彼女の弟さん(たしか真一郎君といったような気がする)が一年生だったが、これがまたとびきりの美少年で、文化祭の仮装行列に "Moorish maiden of sweet seventeen" のコスチュームで登場し、ヤンヤの喝采を浴びたほどだからである。観衆のなかにお姉さんがいたかどうかはいまだに知らない。
因みに私たちの仮装行列のテーマは、当時話題になっていたマナスル登山隊で、私自身は登山隊の単なる一員、彼の役回りは登山隊がカラコルム・ヒンズークシュあたりで出会ったイスラム美少女ということだった。審査結果は風刺が全然無いということで不評も良いところだったが、"Moorish maiden of sweet seventeen" だけは、理屈ぬきに好評だった。

2010年2月8日月曜日

手術同意書に見る怯懦の精神構造

患者の家族に突きつけられる手術同意書にはありとあらゆるリスクが書き連ねてある。
OSのインストールにあたって同意しますかと聞かれるようなもので、普通の人たちが拒否できる余地と時間はほとんど無い。
しかし、ここで私が問題にしているのはそのことではない。
そこに何一つ積極的な記述がないことだ。なにも宇宙飛行士ばかりがえらいのではない。
その手術が困難であればあるほど、また、失敗の可能性と後遺症の悲惨さが過酷であればあるほど、なぜそこに一行 『・・・の理由で後に続く患者と若い医師たちの研鑽の励みになります・・・云々』 と書いてないのか。
これでは難病の患者に救いが無い。尊い犠牲を犬死扱いし、患者及びその家族を不運な被害者扱いすることになる。
患者及びその家族にとって病気そのものの苦痛もさることながら尊い犠牲者として敬われることなく、不運な被害者として憐れまれる(振りをされる)ことのほうが遥かに過酷である。
日ごろから 『命を大切に』 という偽善的スローガンのもとに半病人ばかり量産する現代医療のあり方には疑問なしとしないが、そうであればなおさら、リスクの高い困難な手術に立ち向かう患者やその家族の尊い犠牲を称えるべきだ。

毎年、終戦(敗戦)記念日が近づくたびに繰り返される 『戦死者=無謀な戦争の犠牲者』、『戦没者=戦争被害者』  の大合唱も戦死者や戦没者を犬死した愚か者と罵っているのと変わらない。
その根底にあるのは、無知と自惚れ、そして怯懦の精神構造である。
天皇陛下は 、まさかそんなつもりで黙祷されているわけではあるまい。

因みに私は、2001年の前立腺癌手術以来、同病院でオーダーメイド治療のための血液提供(国家プロジェクト)をつづけているが、今回の手術を機に 『延命治療不可』、『献体可』、『臓器提供可』 のメモ書きを携行している。いずれ正式に登録するつもりだが、すでに妻には伝えており了解を取ってある。

無益な延命には反対だが、医学の進歩に有用なら身柄を預けるに吝かではない。

2010年2月6日土曜日

看病=菩薩行

看護と介護は業務として区別されているが患者の家族にとっては意味のない区分である。
私が入院していた4ヶ月の間、妻と娘は1日も欠かさず、家事もそこそこに交代で病室に駆けつけ夜の8時過ぎまで私の看病に明け暮れていた。とくに始めの2ヶ月間、多いときは一晩に12回もオムツを換える修羅場のなかで、毎日狭い病室のソファーに身体を縮めて泊り込み続けたので本人たちもよく身体がもったと驚いている。実際には私の入院中に娘が限界に達し一時入院する騒ぎもあり、これで妻が倒れたら一家全滅だと途方に暮れる一幕もあった。
ところが張本人の私自身は、自分の置かれた苦しい状況から見ると彼女たちに限らず看護師たちも健康そのものに思えるので、労わるどころか折に触れて当り散らす何とも可愛げの無い病人だった。
それにも拘わらず4ヶ月の間、私の前ではただの一度も嫌な顔を見せなかった妻と娘に対しては、ただ脱帽するしかない。しかし、妻や娘、とくに妻に対しては面と向かって有難うと言えない性分なので一人深夜の病室で涙ぐむ毎日だった。
父から生前よく菩薩行という言葉を聞いたことを思い出すがあの4ヶ月の間、妻や娘が全身全霊をあげて私の看病にあたってくれたのは、まさに菩薩行そのものだった。

入院中にお世話になった看護婦(敢えて看護師とは呼びたくない)さんたちにも心からお礼を言いたい。ほんとうに有難うございました。
看護師と言えば、入院中お世話になった女性の一人に、同じ病院のリハビリセンターの帰りにバッタリ出会ったことがある。首にコルセットを巻いているのでどうしたのかと聞くと、頚椎ヘルニアで手術をしたのだという。

『・・ああ、彼女たちも生身の身体に鞭打ちながら、しかし、そんなことはおくびにも出さず毎日毎晩、患者のために働いているのだなあ・・・』 

と頭が下がる思いだった。

2010年2月5日金曜日

生還の損得勘定

生還の損得勘定

損・・・ 不自由な手足(運動神経の麻痺)と不快な肛門(自律神経の麻痺)と侭ならぬ感情の起伏等々々・・・ありとあらゆる不快症状
得・・・ 予期していた世の中の変化を目の当たりにしたこと。

変化その1 ・・・ 300年にわたる白人優位思想の終焉。
      1st  日本海海戦における連合艦隊の完勝
      2nd 大東亜戦争を契機とするアジア諸国の蜂起と独立
      3rd 非白人の米国大統領の誕生
変化その2・・・南部、益川、小林、下村4博士のノーベル賞同時受賞。とりわけ、南部、益川・小林3氏の物理学賞受賞は、クラシック音楽についで学術の分野でもユダヤ人に追いつき追い越した証左。

嘗て名古屋大学物理学科の創設者であった故坂田昌一博士がある対談でこう語ったのを読んだことがある。
『物理学は現象論から出発して実体論まで歩を進めてきた。しかし、本質論の領域には一歩も踏み込んでいない。』

私の祖父が参禅した故原田祖岳老師は、アインシュタインによる相対性理論の発表に接し、「われわれは悟りの内容をいかに伝えるかに苦心してきたがそれは不可能だと感じ、『不立文字』、『只管打座』を唱えてきた。しかし、これからは科学者が説明してくれるだろう。」と語ったという。半世紀以上も前、何度も父から聞かされた話だ。

今回の受賞者について言えば、益川、小林両博士の理論はHOWは語ってもWHYは何も教えてくれない。その意味では実体論の範疇に止まる。しかし南部博士の理論は本質論の1歩手前まで迫っているように思われる。その意味ではホーキングはもとよりアインシュタインをも超えたと言えよう。

しかし以上の2点をどうでもよいと思うほど感動したのは、小林博士の夫人がTVのインタビューに答えて語ったつぎの一言だった。夫人は小林氏の母堂が氏の受賞を見ずに他界されたことに触れそれが一番の心残りだといった後、こうつぶやかれた。
『 ・・でも 人生ってそういうものですよね・・』
願わくは、世界中の誰でもよいから私の生きているうちに、我々の存在が宇宙に痕跡を残すや否や・・・生命体の営為に因果律が存在しうるや否や・・・を教えてほしい。

2010年2月4日木曜日

臨死体験の実態・・・究極の自己満足

臨死体験・・・2008.11.19からの数日間

ICUにて植物状態だった数日間、ピクリとも動かない私を前にして蘇生させようと妻や娘が必死に手足を動かしている間、私自身は決して意識がなかったわけではない。

だだし、全身の感覚が失われていたので妻や娘が必死に看病してくれていたことも、さらには妻や娘がそこにいたことすら認識していなかった。それにも拘わらず意識があったと言うのはどういうことかと言うと、要するに外部からのインプットが遮断された状態のまま、過去の記憶を好きなように編集して再生していたと考えればよい。
そこでは、壮大な建国神話の物語や自らの英雄的業績、さらには葬儀や火葬の模様まで一種異様な現実感をともなって進行する。しかし火葬に付される自分が少しも熱さを感じないといった極めて都合のよい究極の自己満足を味わえる世界であり、その意味では夢を見ているのと変わらない。それにしても、満開の桜並木や桜模様がフラクタル状に渦巻く山並そして同じく桜模様で埋め尽くされた高楼と言う具合にエンディングテーマが常に桜だったのには我ながら呆れるばかりだ。

しかし、ときどき部分的に外部からのインプットもあったらしく、後日、主治医と話しているうちにそれを指摘された。彼の言によればこのような短期記憶が残っていると言うのは、たとえそれがどのように変形していようと驚くべきケースだと言う。

それはどんな場面かと言うと、どういうわけか自分が広い病室のベッドに移され(どこから移されたかは定かでない)カーテンを隔てた右側には地位のあるらしい男性患者、左側には男女ははっきりしないが極めて重篤な患者が居て、それぞれ見舞い客や家族らしい人たちの声が聞こえてくる。「地位のあるらしい」と書いたのは誰かに何か指図している声が偉そうだったからだ。また「極めて重篤」と書いたのは家族らしい人たちの泣き叫ぶ声が聞こえたからだ。

この話を聞いて妻と娘がびっくりし、そのころピクリともしなかった私が時々眼をカッと見開いて左を向き隣から聞こえてくる悲鳴に似た声を聞いているような反応を示したと言うのである。

2人は毎日ICUの制限時間いっぱい私のそばに居たそうだが、隣りの患者の家族といつも待合室で一緒になるのでお互いに親近感を抱いていたと言う。ところが翌日その人たちの姿が見えないのでどうしたのだろうと病室に入ると左隣りのベッドが無くなっていた。一瞬にして事態を察知し、ハッとして私の安否を確かめたというのである。

話を元に戻すが、要するに世に言う臨死体験なるものは、いずれも自己満足の空想に過ぎないと言うことである。断っておくが私はいわゆる臨死体験なるものを無意味だと言っているわけではない。それが個人の人生観に良くも悪くも大きなインパクトを与えることに異論はない。
多くの場合、それは人の心をして残りの人生を有意義に過ごしたいという方向に動かすと言う意味では有意義な体験だと言えよう。

しかし、では有意義な人生とは何か・・・それを教えてくれるわけではない。

人は死ぬとどうなるか(究極の難題)

2010年2月3日水曜日

「満足せる豚よりも痩せたソクラテスになれ・・・」

「満足セル豚よりも痩せたソクラテスになれ・・・」これは我々の卒業式で大河内総長が述べたらしいが我々の中で誰一人聞いたものがいないという例の話の真相(私見)である。
4ヶ月の入院中毎日24時間ベッドの上であれこれ考えているうちに突然、あることに気がついた。
法文経大教室で聴いた大河内教授の最終講義の冒頭に先生は例の人を食った調子でこう言って我々を笑わせた。
「学者と言うものは因果なもので、いったんこうだと言ってしまったことは、後でこれはまずかったなと思っても変えるわけにいかない・・・」あの大河内先生にして自らの学説に瑕疵を認めていたのか・・・と言う感慨はさておき、重要なことは、いったん公にした以上いかなる理由があろうとも食言はしないと言う見事な姿勢である。
あの告示の原稿を書いたとき先生は予てからの持論として、至極当然のことを述べたつもりだったに違いない。しかし、それを新聞社に渡した後もう一度読み返すうちに或ることに考え及んで 「しまった」 と思ったのではないか。
「満足セル豚よりも痩せたソクラテスの方が優れていると言うのは独断に過ぎない。これを全卒業生に向かって言うことはできない。しかし、いったん新聞社に渡してしまった原稿を変えるわけにはいかない。」
これが自らの姿勢を貫くと同時に心ある若者の志にはなむけの言葉を送る唯一の方法だった。

「満足セル豚よりも痩せたソクラテスの方が優れていると言うのは独断に過ぎない。」
大河内先生はそう考えたに違いない。私がそれを確信したのは、私自身生死の竿頭に立って人生観の転換を経験したからだ。

2010年2月2日火曜日

人生観の転換

急性大動脈解離とは・・・・と書き出したものの後が続かない。
もともと遅筆だったのが更にひどくなった。
要するに体系的に総論を書こうとするからいけないのだ・・・

そこで、入院中に心に過ぎったことを断片的に書きならべることにする。
やはり兼好法師はたいしたものだ
・・・こころに移り行くよしなしごとをそこはかとなく書き尽くれば・・・

●大動脈解離、とくに急性大動脈解離は致死率が高く、心臓外科医にとって最大級の緊張を要求されるにも拘わらず保険制度上不当に軽く扱われている。つまり心臓病ではないことになっている。
私の場合、障害者認定が受けられない。
致死率について言えば、私の入院中2件の救急患者が運ばれてきたが、いずれも救急車が到着したとき既にこときれていたと聞いている。

大動脈を人工血管に置換する際、人工心肺に切り替えるが、置換手術そのものよりも、それに起因する後遺症(虚血性脳梗塞及び臓器障害)の方が遥かに悲惨である。
私の場合、植物状態1週間、排泄障害(要するに垂れ流し)4ヶ月、1年以上たった今も手足の痺れや麻痺のほか息切れや動悸に悩まされている。
今でも死なせないことだけを良しとして半病人を量産する現代の風潮には我慢がならない。

●医師・看護師・妻娘との論争
発病から40日経過した大晦日の夜中、医師・看護師・娘に対して「何故助けた!」と詰問し唯一自由の利く足の先で片っ端から蹴飛ばすと言う事件が起きた。
命の恩人たちに対して本当に申し訳なく思っている。
医師はこれをICUシンドロームと説明したそうだが、私に言わせれば人生観の問題でもある。
「70歳にもなろうというのにこんな苦しい思いをするくらいなら死んだ方がましだ」と言う悪態は退院するまでつき続けた。今でもその気持ちは時として噴出する。人類は異常大発生しているのであって希少種でもなんでもない。そんな哺乳類の命が何で大切なものか!

●医師によれば短期記憶は永久的に失われると言う。
私の場合、発病前後の記憶はまったくない。妻の話では早朝自宅でPCを使用中、隣室に駆け込み胸を押さえて昏倒したそうだ。それから救急車を呼んだり、妻と娘は大パニックに陥ったらしいが私自身はただ想像するしかない。
因みに1~2週間後、ある程度、思考能力が戻ってきたころ真っ先に聞いたのは「何か世の中で変わったことがあったか」であるが、妻から「オバマがヒラリーに勝った」と聞いても何のことやらさっぱりわからなった。米国大統領選挙のことだくらいは判るが「オバマ」とはいったいなんだ・・・。その後数週間のうちに歴史上の事実として記憶をたどることはできたが、彼が登場してきた時の臨場感はない。

●人生観の転換
2001年に前立腺癌の手術をしたときも人生観に何がしかの変化はあったと思う。
しかし、今回の入院生活の中で体験したそれはまさに決定的なものだった。
私は、これまでずっと「何事かを成し遂げる人生」に価値を見出してきた。
要するに人生には「価値ある人生」と「そうでない人生」の2通りがあるという観念である。
しかし今回、文字通り手も足も出ない状況におかれて、あらためてそのような2元論では何も解決しないことを知った。
では何を以ってこの世に生を受けたことの意義を見出しうるか。
18歳で華厳の滝に身を投じた藤村操になんと答えるか。
私の現時点での答えは 『世界≒宇宙』 の多様性を構成する固有の1要素 というものであるが、これについてはホーキング等の蒸発宇宙仮説のみならず生命体の営為に因果律が存在しうるかという究極の難問が残されている。