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2011年10月18日火曜日

"趣味はなんですか"・・・当たり障りのある愚問の代表

今日の日経夕刊コラム "明日への話題" に早大教授の津田廣喜氏が戦後の一般サラリーマンからは、まず絶対聞くことのない本音を述べておられる。 要するに"趣味は何ですか" という質問に "無趣味です" と答えると変な顔をされるということである。

私も、この種の質問には、数十年来辟易して来たので、氏が "無趣味の者同志のあつまり" を期待される気持ちがよくわかる。 しかし、そんな集まりに参加したいとは思わないのが無趣味の無趣味たる所以であるから、恐らく何の解決にもならないだろう。

問題は、無趣味な人自体にあるのではなく、こんな当たり障りのある質問を、最も当たり障りのない質問だと思い込んでいるか、本心を隠して相手に迎合し、有りもしない "趣味" なるものを有るかのごとく答える奴隷根性のマニュアル人間のほうに有るのだ。

そもそも、趣味の定義からして、営業用マニュアルから引っ張り出したようなものばかりだ。 もし、この質問が時候の挨拶と同じだというなら、答えもまた当たり障りのない自明の決まり文句でなければならないはずなのに、そうではなく、テレビに出て来るような流行ものでなければならないというのは、不都合を通り越して不届き千万である。

一例として、私がサラリーマン時代に、あるところで銀行の常務(この言葉も商法にはない会社人間用語だが)以上とか称する人々の集まりで前座の講演をしたときのことを紹介しよう。
真打ちは、彼らの間では高名だという "ゴルフ評論家" だったが、控え室で雑談しているなかで、幹事の元某大銀行頭取が、極めて当たり前のようにこう言ったのには、驚く以前に呆れた。
"銀行の役員でゴルフをやらない者は、1%だそうですね。 実際、ゴルフもやらないような行員に出来る男はまずいませんね・・・"

ある米国の経営者が、日本の会社の幹部に趣味を聞くと皆一様に "ゴルフ" という答えが返って来るのに驚いたそうだが、実際には、驚いたのではなく、呆れかえって軽蔑したのだろう。

もし、日米両国の経営者に、私がこの病気で倒れる3年前の夏まで、休日に夢中になっていたのは、沢蟹とりと山栗拾いだと言ったら、何と言うだろう。 "そういうのは、子供の遊びで趣味とは言いません" と言われたら、"では、貴方の言う趣味の定義は何ですか" と聞いて見よう。

2011年10月13日木曜日

ノーベル賞学者の言うUSとEUの違い

今日の日経夕刊のコラムで、ニューヨークから西村博之記者が、今年のノーベル経済学賞受賞者に決まったサージェント・米ニューヨーク大教授のインタビューでの答えを報告していた。

要するに、US も当初、13州が皆破産状態だったが、後に初代大統領となるジョージ・ワシントンやその参謀で「強い中央政府」の支持者だったアレクサンダー・ハミルトン等が、連邦政府に各州の債務を移すとともに、各州の関税徴収権を集中させたことで解決の方向に向かった。今の EU にはその権限がない。全ては政治的決断一つにかかっているというものである。

では、今の日本はどうか。 それが私の言いたいことである。

US は、 US としての国益を決定する機関(連邦政府)を作ることに成功したが、EU は成功していない上、その意思すら当てにならない。

日本の場合、憲法はもともと不出来な上、その正当性すら怪しいところへ持ってきて、最近では国益概念の一致どころか、概念そのものの存在すら消されつつある。
要するに、日本が国家でないのは、EUが国家でないのと同じだと言うことだ。

国家不要論者は、その何処が悪いと言いそうだが、独立国を持たない民族の苦難の歴史を知らない極楽トンボや資産を外国に隠しておけば良いと言う金持ちエゴイスト(売国奴という)と議論しても無駄だから、この辺でやめておく。 だいいち、外国と言う "国家" が無ければそれも出来ないことくらい判らないとは言わせない!

ついでに言うが、リンカーン大統領が、未だに、米国で一番尊敬されているのは、奴隷解放より合衆国の分裂を回避することの方が遥かに重要だと言うことを知っており、かつ、それを明言したからだ。
くどいようだが、彼は国を救ったから尊敬されているのであり、決して国民の一部に過ぎない黒人奴隷を解放したから尊敬されているのではない。

2011年10月8日土曜日

渋沢栄一の "「論語と算盤」 再評価" に思う。

アダム・スミスは、生涯に2冊の大著を残している。1763年の最初の著書『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments)と 1776年の通称『国富論』(The Wealth of Nations)である。前者が後者の大前提になっているという説を何処かで読んだ記憶がある。 多分、何年か前の日経 "経済教室" 欄だったと思う。そうだとすれば、前者を挙げずして後者を源流とする "アングロ・サクソン型資本主義" のみを槍玉に挙げるのは、片手落ちであり、"経済学の祖" に対して礼を失することになる。

今朝の日経 "文化" 欄で、編集委員 河野孝氏が、「論語と算盤」に関して、当時ナポレオン3世統治下でのサン=シモン主義政策の影響を指摘した社会政策学者の新説を紹介しているが、時代背景から考えれば肯けないことはない。 しかし、なぜ、その前に 「道徳感情論」に触れないのか、徒らに、アングロ・サクソン悪玉論を唱えていれば良いというものではあるまい。 それとも私の考えすぎか?

2011年10月5日水曜日

政治家の "問題発言" 国際比較

多少、文言に不正確な所があるかもしれないが、趣旨に大きな間違いはないと思う。

① ワシントン大統領
ナバホインディアンの抵抗に業を煮やし、「・・・鎮圧ではなく絶滅だ。 彼らを皆殺しにせよ・・・」

② リンカーン大統領
南部の黒人奴隷解放によって200万人の黒人を北軍の味方に出来るとして、「・・・重要なのは合衆国の分裂を阻止することであり、奴隷解放はその一手段に過ぎない。 もし、その為に奴隷解放が必要なら解放する、しかし。 もし、解放しないことが必要なら解放しない・・・」

③ ヒットラー総統
世界に冠たるドイツ民族にとって、ユダヤ人の存在が障害になっているとして、「・・・最終的解決(ユダヤ民族の絶滅)が不可欠である・・・」

④ 毛沢東主席
米ソの原爆など脅威ではないとして、「原爆で中国の半分の3億人が死んでも、残り3億人が生き残り、何年か経てば6億人となり、もっと多くなる・・・」

⑤ もうひとつおまけに、フランス国歌
 “・・・Qu'un sang impur abreuve nos sillons ! ・・・”
(・・・彼らの穢れた血で我らの田畑を潤すために!・・・)

等々、枚挙に暇がない。 それと比べれば昨今の日本の政治家の "問題発言" など取るに足りない。


真の問題は、何が誰にとって何う問題なのかであり、所詮、民主的に解決できるような生易しい話ではない。 確かなことは、未だ人類の歴史は、自らの帰属集団の生き残り競争、「勝てば官軍」、「弱肉強食」 の世界にとどまっているということだ。

しかし、生態系は、(残念ながら?)共食いも含めて全てそうであり、生態系を守ると言うことは、人類も含めて生存競争を是認すると言うことである。 その何処がいけないのか、他により良い手段があるのか、きちんと答えられる人がいたら教えて欲しい。 ただし、人類だけは例外だとする議論には応じるつもりはないことを断っておく。