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2012年3月27日火曜日

テラスモール湘南・・・35年間のまちぼうけ

私達一家が横浜の団地から今の住所・・湘南ライフタウン(藤沢・茅ヶ崎共同開発)・・に移ってきたのは、1976年(昭和51年)のことだった。 湘南地区最後の大開発という触れ込みで、①藤沢地区・茅ヶ崎地区の一体開発、②辻堂駅前の大工場(関東特殊製鋼・・旧住友金属系列の圧延ロールメーカー)の移転と跡地の再開発、③芙蓉カントリークラブの下を貫通する大庭隧道の開通など々々、派手な計画が謳われていた。 まだ不動産バブルが最後の輝きを失う前のことだった。

その後、1979年~89年にかけての、不動産バブル崩壊、第一次金融バブルの崩壊の過程で、殆んどの計画がストップし、90年代に入って③が実現したのみで、①と②は、一向に進展を見ず、今日まで30年以上の月日が経過してしまった。 その間に子供達は成人して去り、高齢者ばかりのゴーストタウン化が進んで来た。" これがまあ終の棲家か・・" と、半ば諦めかけて居た所に、"テラスモール湘南" の開発工事が始まってからも既に3年余・・・、漸くその全貌が姿を現し始めた。

ついこの間まで、あんな殺風景な開発計画では数年でゴーストタウンになってしまう・・・ などと悲観的なことを言っていた妻や娘も最近ではすっかり宗旨替えして、折りあるごとに出かけては要らぬ物まで買い込んで来るようになった。 それと共に、その後背地としてのわが町の雰囲気も活気を取り戻し始めたようで、公園で遊ぶ子供達の姿が目立つようになったのが何よりも嬉しい。

そんな感慨もあって、この間の日曜日、来月19日に東京で開かれる同窓会に出かける予行演習の心算で、辻堂駅まで行ってきた。 夕方だったので行きはともかく帰りは寒かった。 おまけに目の前に停まっているバスが数秒後に発車してしまうのを 2度も見送る羽目になった。 千葉駅から東京情報大学行きのバスに乗っていた時にこんなことは無かった。 京成バスの親切さと神奈中バスの不親切さは、未だに変わらない。

たまには YouTube に新しい動画の一つもと思って、テラスモールの賑わいを撮ってきたが、障害老人がカメラを構えているのを見て、首を竦めて通り抜ける女性も居た。 我ながらあまりパッとしない出来だが、いずれもっと明るいうちに撮り直すことにしよう。


2012年3月11日日曜日

2011.3.11 は何の記念日となるか?

1年前の今日、相次いで同時に起こった2つ大事件発生から、今日で丁度一年目に当たると言うので、世界各地で記念式典が行われている。 この日に起こった2つの大事件とは、もちろん ①東日本大震災 および ②福島第一原子力発電所の崩壊 のことである。

このうち、いわゆる未曾有の名に値するのは、②であって①ではない。 大震災や巨大津波などは、最近の数百年間に限っても繰り返し起きており、偶々居合わせた当事者にとっては大事件だったかも知れないが、歴史的には日常茶飯事に属する。

しかし、マスコミの報道で見る限り、未曾有の災害として騒がれているのは専ら①であって、②はいつの間にか、政治・経済問題に矮小化されてしまったかに見える。 実際には、すでに被害の確定している① よりも、今なお進行中の② の方が遥かに深刻なはずなのにである。 もっとも深刻だからこそ見てみない振りをしていると言うべきかも知れないが。

②の事件については、昨年の3月13日~4月23日の間、数回にわたって、この BLOG にも書き、一部は英訳してYouTube にも投稿 しておいたので、それ以来、米・露・仏・独・中・ウクライナあたりのサイトから定期的に正体不明のアクセスが来るようになった。 この間、国内外からの反論は1件も無かったし、またこの間の私の主張に修正の必要はまったく無いと思っている。それどころか最近報道され始めた復元議事録の内容から見る限り、むしろ私の常識的判断と推測による断定的記述が殆ど的を射ていたことに驚いている。

因みに、先日、一昨年に続いて出席する心算でいた昨年4月13日の同窓会に、体調ゆえに欠席せざるを得ない旨メールを出した日付を見て、またまた驚いた。 何と、地震発生の当日の深夜(2011/03/11 (金) 0:48)だった。 また、ぐラッとゆれ始めた時は、偶々ケアマネージャーが来ていて妻と3人で今後のリハビリ計画を相談していたところだった。

以下は、昨年の3月13日地震発生の2日後に投稿した日記の全文である。

2011年3月13日日曜日
福島原発・・・国難に再び神風は吹くか?


大津波の騒ぎで幸いにも時間稼ぎが出来ているが、菅首相以下、決死の戦いが始まった。
ようやく明治以来、絶えて久しかった "国難" という言葉が最高司令官である菅首相の口から発せられた。 津波のことではない。 原子力発電所の致命傷のことである。 いま福島第一原発では、東電やメーカーの技術者や研究者が命がけで勝算の定かでない戦いを続けている。

もちろん、世の中には奇跡的成功というものがある。 彼らもそれを信じて全力を尽くしているに違いない。 しかし、それは、いったん故障した "はやぶさ" が "イトカワ" から生還するのを期待するに等しい。 もし、彼らの努力が功を奏したなら、国民栄誉賞は、彼らにこそ与えられるべきだ。

すでに、賢い人々は国外脱出を始めた。 私の親しい50代の物理学者も昨日の便で成田を発った。 たまたま前から共同研究先との約束があったからだが、仮にそうでなくても卑怯だとは思わない。 私自身は、この年で今更逃げ出す気は無いが、いまや一人でも多くの若い人には生き残っていてほしい。 終戦時に自分自身は現地にとどまり、優秀な部下を日本内地に脱出させた多くの旧日本軍将校の気持ちが痛いほどわかる。 急性A型大動脈解離からの 奇跡的生還を果たした損得勘定 の得の筆頭に挙げるべき体験だろう。

あとは、神風が吹くのをまつのみ!


At the Fukushima "GEN-PATSU" (Nuclear Power Plant), young engineers and scientists are making desperate efforts to stop the nuclear reactor.

If they could succeed in it, by some miracle like "KAMIKAZE",
they should be awarded the "Order of National Hero".

But it is far more difficult than "HAYABUSA's miracurous return to
the Earth".
投稿者 関口益照 時刻: 11:37

2012年3月1日木曜日

宮沢賢治との時空を超えた縁

一昨日の日経夕刊 "明日への話題" 欄で、住友信託銀行相談役の小山温氏が、昨年3月の東北大震災以降、国内外で宮沢賢治が注目され、「雨にも負けず」 が英訳版も含めて紹介される機会が増えた。と言う趣旨の寄稿をされていたのを読んで、突然、今まで書き忘れていたことを思いだした。

多分、大抵の日本人は、彼の名前くらいは知っているだろう。 早世した妹トシへの挽歌 「永訣の朝」 は知らなくても、「雨ニモ負ケズ」 の詩は、教科書にも載っているので 国語の時間に習った人が多いと思う。
また、彼が 法華経 を座右においていたことも、よく知られていることで、わざわざ此処で書くまでもない。

私が、是非ここで書き残しておきたいのは、彼の人生観の根底には、"" が(だけだったとは言わないが)あったということである。 私がそれを知ったのは、昭和42年(1967)10月に父が他界した後、母が桐生の家を引き払って東京の兄の家に移ってくる前後のことだったと思う。

生家に残されていた書籍類の中に、祖父が生前師事していた 曹洞宗原田祖岳老師 が拠点とした 福井県発心寺 の機関紙を見つけ、パラパラと捲って読むともなしに見ていたところ、その機関紙(名前が思い出せない)を宮沢賢治が購読していたこと、さらに何度かは知らないが寄稿していたことが記されていたのである。

果たして賢治がどこまで原田老師に私淑していたかは、知る由もないが、理論倒れの仏教学者たちに愛想を着かして駒澤大学教授の地位を捨て、一方、形骸化した永平寺の公案禅にも飽き足らず、発心寺を拠点に全国行脚していた原田老師に教えを請い、参禅した可能性は否定できない。

因みに、亡父が祖父から聞いた話によると、老師は、アインシュタインの相対性理論の登場に接し、これからは、科学者に "禅理" の解明を期待すると言っていたそうだ。 また随一の高弟と目されていた 安谷白雲老師 は、70歳を超えて尚、米国での "禅" 普及活動を続けていた。

二十歳前後の書生時代に、藤村操の死をめぐる論争に疑問を持ち、黒岩涙香に面会して議論を挑んだと言う 祖父 が、聖書から西洋哲学、果ては老荘思想にいたる遍歴の末、最後に廻りあった知行合一の傑僧に賢治が何の影響も受けなかったとは到底思えない。