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2010年2月2日火曜日

人生観の転換

急性大動脈解離とは・・・・と書き出したものの後が続かない。
もともと遅筆だったのが更にひどくなった。
要するに体系的に総論を書こうとするからいけないのだ・・・

そこで、入院中に心に過ぎったことを断片的に書きならべることにする。
やはり兼好法師はたいしたものだ
・・・こころに移り行くよしなしごとをそこはかとなく書き尽くれば・・・

●大動脈解離、とくに急性大動脈解離は致死率が高く、心臓外科医にとって最大級の緊張を要求されるにも拘わらず保険制度上不当に軽く扱われている。つまり心臓病ではないことになっている。
私の場合、障害者認定が受けられない。
致死率について言えば、私の入院中2件の救急患者が運ばれてきたが、いずれも救急車が到着したとき既にこときれていたと聞いている。

大動脈を人工血管に置換する際、人工心肺に切り替えるが、置換手術そのものよりも、それに起因する後遺症(虚血性脳梗塞及び臓器障害)の方が遥かに悲惨である。
私の場合、植物状態1週間、排泄障害(要するに垂れ流し)4ヶ月、1年以上たった今も手足の痺れや麻痺のほか息切れや動悸に悩まされている。
今でも死なせないことだけを良しとして半病人を量産する現代の風潮には我慢がならない。

●医師・看護師・妻娘との論争
発病から40日経過した大晦日の夜中、医師・看護師・娘に対して「何故助けた!」と詰問し唯一自由の利く足の先で片っ端から蹴飛ばすと言う事件が起きた。
命の恩人たちに対して本当に申し訳なく思っている。
医師はこれをICUシンドロームと説明したそうだが、私に言わせれば人生観の問題でもある。
「70歳にもなろうというのにこんな苦しい思いをするくらいなら死んだ方がましだ」と言う悪態は退院するまでつき続けた。今でもその気持ちは時として噴出する。人類は異常大発生しているのであって希少種でもなんでもない。そんな哺乳類の命が何で大切なものか!

●医師によれば短期記憶は永久的に失われると言う。
私の場合、発病前後の記憶はまったくない。妻の話では早朝自宅でPCを使用中、隣室に駆け込み胸を押さえて昏倒したそうだ。それから救急車を呼んだり、妻と娘は大パニックに陥ったらしいが私自身はただ想像するしかない。
因みに1~2週間後、ある程度、思考能力が戻ってきたころ真っ先に聞いたのは「何か世の中で変わったことがあったか」であるが、妻から「オバマがヒラリーに勝った」と聞いても何のことやらさっぱりわからなった。米国大統領選挙のことだくらいは判るが「オバマ」とはいったいなんだ・・・。その後数週間のうちに歴史上の事実として記憶をたどることはできたが、彼が登場してきた時の臨場感はない。

●人生観の転換
2001年に前立腺癌の手術をしたときも人生観に何がしかの変化はあったと思う。
しかし、今回の入院生活の中で体験したそれはまさに決定的なものだった。
私は、これまでずっと「何事かを成し遂げる人生」に価値を見出してきた。
要するに人生には「価値ある人生」と「そうでない人生」の2通りがあるという観念である。
しかし今回、文字通り手も足も出ない状況におかれて、あらためてそのような2元論では何も解決しないことを知った。
では何を以ってこの世に生を受けたことの意義を見出しうるか。
18歳で華厳の滝に身を投じた藤村操になんと答えるか。
私の現時点での答えは 『世界≒宇宙』 の多様性を構成する固有の1要素 というものであるが、これについてはホーキング等の蒸発宇宙仮説のみならず生命体の営為に因果律が存在しうるかという究極の難問が残されている。

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