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2010年2月8日月曜日

手術同意書に見る怯懦の精神構造

患者の家族に突きつけられる手術同意書にはありとあらゆるリスクが書き連ねてある。
OSのインストールにあたって同意しますかと聞かれるようなもので、普通の人たちが拒否できる余地と時間はほとんど無い。
しかし、ここで私が問題にしているのはそのことではない。
そこに何一つ積極的な記述がないことだ。なにも宇宙飛行士ばかりがえらいのではない。
その手術が困難であればあるほど、また、失敗の可能性と後遺症の悲惨さが過酷であればあるほど、なぜそこに一行 『・・・の理由で後に続く患者と若い医師たちの研鑽の励みになります・・・云々』 と書いてないのか。
これでは難病の患者に救いが無い。尊い犠牲を犬死扱いし、患者及びその家族を不運な被害者扱いすることになる。
患者及びその家族にとって病気そのものの苦痛もさることながら尊い犠牲者として敬われることなく、不運な被害者として憐れまれる(振りをされる)ことのほうが遥かに過酷である。
日ごろから 『命を大切に』 という偽善的スローガンのもとに半病人ばかり量産する現代医療のあり方には疑問なしとしないが、そうであればなおさら、リスクの高い困難な手術に立ち向かう患者やその家族の尊い犠牲を称えるべきだ。

毎年、終戦(敗戦)記念日が近づくたびに繰り返される 『戦死者=無謀な戦争の犠牲者』、『戦没者=戦争被害者』  の大合唱も戦死者や戦没者を犬死した愚か者と罵っているのと変わらない。
その根底にあるのは、無知と自惚れ、そして怯懦の精神構造である。
天皇陛下は 、まさかそんなつもりで黙祷されているわけではあるまい。

因みに私は、2001年の前立腺癌手術以来、同病院でオーダーメイド治療のための血液提供(国家プロジェクト)をつづけているが、今回の手術を機に 『延命治療不可』、『献体可』、『臓器提供可』 のメモ書きを携行している。いずれ正式に登録するつもりだが、すでに妻には伝えており了解を取ってある。

無益な延命には反対だが、医学の進歩に有用なら身柄を預けるに吝かではない。

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