その1 "ノルマンディー上陸作戦" (Operation Overlord)
ハリウッド映画 “The Longest Day” とポール・アンカ作詞・作曲の主題歌を紹介するだけで充分だろう。
この映画の日本語題名を "史上最大の作戦" と付けたのは、大成功だったと言われているが、それは、私に言わせれば商業主義に毒された戦後の日本人の言い分で、Paul Anka に対する冒涜である。 彼がこの歌詞に込めた思いはそんな浮ついたものではないことは、よく読めば分かるはずだ。 それは、一人一人の兵士の立ち向かった苦難と恐れであり、よくそれに耐えて闘った勇気と運命への挽歌である。 20歳でこの曲を作った Paul Anka に改めて敬意を表したい。
Many men came here as soldiers
Many men will pass this way
Many men will count the hours
As they live the longest day
Many men are tired and weary
Many men are here to stay
Many men won't see the sunset
When it ends the longest day
The longest day the longest day
This will be the longest day
Filled with hopes and filled with fears
Filled with blood and sweat and tears
Many men the mighty thousands
Many men to victory
Marching on right into battle
In the longest day in history
その2 "リリー・マルレーン" (Lili Marleen)
アフリカ戦線で独・英両軍の兵士によって愛唱されたのを機に全ヨーロッパで各国語に訳され、歴史的ヒットソングとなった。
後に、マレーネ・ディートリッヒの退廃的な歌声による連合国側の対独謀略放送に利用されたので、オリジナルはラーレ・アンデルセンの1939年版だと言うことを知らない人が殆んどになってしまったが、炎熱のアフリカ戦線で実際に過酷な戦闘のさなかにあった独・英両軍の兵士によってドイツ語のまま歌われたのは後者のほうである。
ザグレブ放送から流れてきたこの歌を聞き、アフリカ戦線の兵士達にも聞かせたいと、たまたま放送局に居た友人に頼んでベオグラード放送の零時の定時放送に載せてもらったのは、かのロンメル将軍だったと言うのを何処かで読んだ記憶がある。 また、彼はドイツ陸軍最初の平民出身の将官でもあった。 "花も実もある" とは、彼のような人物をいうのだろう。
Vor der Kaserne
Vor dem großen Tor
Stand eine Laterne
Und steht sie noch davor
So woll'n wir uns da wieder seh'n
Bei der Laterne wollen wir steh'n
: Wie einst Lili Marleen. :
Unsere beide Schatten
Sah'n wie einer aus
Daß wir so lieb uns hatten
Das sah man gleich daraus
Und alle Leute soll'n es seh'n
Wenn wir bei der Laterne steh'n
: Wie einst Lili Marleen. :
Schon rief der Posten,
Sie blasen Zapfenstreich
Das kann drei Tage kosten
Kam'rad, ich komm sogleich
Da sagten wir auf Wiedersehen
Wie gerne wollt ich mit dir geh'n
: Mit dir Lili Marleen. :
Deine Schritte kennt sie,
Deinen zieren Gang
Alle Abend brennt sie,
Doch mich vergaß sie lang
Und sollte mir ein Leids gescheh'n
Wer wird bei der Laterne stehen
: Mit dir Lili Marleen? :
Aus dem stillen Raume,
Aus der Erde Grund
Hebt mich wie im Traume
Dein verliebter Mund
Wenn sich die späten Nebel drehn
Werd' ich bei der Laterne steh'n
: Wie einst Lili Marleen.
その3: "神風特別攻撃隊" (Kamikaze Attacks)
サイパン島陥落直後、日本本土への B29 による爆撃が可能になった危機的状況の下で、南方との石油兵站線の要衝であったフィリピン防衛の任にあった大西瀧治郎海軍中将が、僅かに残された40機の航空戦力でレイテ湾に殺到する米軍に一矢報いるための非常手段として配下の士官らにはかり、全員の同意の下に編成した4つの航空編隊が最初である。 本居宣長の "敷島の大和心をひと問はば朝日に匂ふ山桜花" に因んで、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名づけられた。
山本さんのお兄さん(山本卓美中尉)も、この後に続く陸軍特別攻撃隊の先駆け “勤皇隊” の隊長として、レイテ
因みに、大西中将は、直前まで軍需省中枢に居て、米国に対する圧倒的劣勢を熟知しており、日本本土が米軍によって蹂躙される前に一刻も早く、講和に持ち込まなければならないと考えていたらしい。 しかし、実際に逸り立つ青年将校等の反対を押し切り、終戦を命ずることが出来るのは、天皇陛下しか居ないということも判っていた。 特攻は一方において米軍に "日本侮り難し" と思わせると同時に、他方において、天皇陛下に事態の深刻さを知らせ、青年将校らが天皇陛下の裁断に従わざるを得ない状況を作り出すことが真の目的だったと言う証言もある。 当時、終戦を口にしただけで暗殺されかねない状況だったことは、現に昭和天皇によるポツダム宣言受諾の裁断がなされるや、直ちに天皇軟禁のクーデターが企てられたことからも想像できよう。 いづれにせよ、大西中将自身は、終戦の翌未明に全ての責任を負って自決している。
何事にも例外があり、数が増えれば、怪しからぬ者も出て来ようし、初期の目的や意図が曖昧になり、特攻の自己目的化が生ずるのはやむをえない。 それを以って、当初の意図を愚考と見なすのは、否定のための否定と言うべきであろう。
追記1 山本さんの晩年の講演から。
私が特攻を命じられたときにはもう兄はすでに戦死しておりました。兄は特攻隊長としてレイテ沖で戦死。ですから、兄と同じ運命と、迷うことはありませんでした。
いかに敵戦車への攻撃を有効ならしめるか?もっぱらそれを考え続けていたのです。飛行機に整備、羅針盤、あるいは機関砲をはずして爆弾を余計に積むとかですね。
兄の場合もいかにして部下を一機も欠落させずに目的地に着いて、そして、全機そろって突っ込むかということに、心を砕いているという姿が日記にありました。それはたぶん、多くの特攻隊員の心境だったのではないかと思います。
忘れもしません平成六年のことです。天皇陛下が硫黄島に行かれまして、「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」という感動的な御製を御作りになられました。栗林中将は死地に赴かれ、精根をこめ、地下壕を掘って、艱難辛苦に耐えて、炎熱に耐えて、戦いを続けられた。それを陛下は思いやられてのことだと思います。
追記2 特攻を "愚かな自殺行為" という人は、他の選択肢を示すべきです。
団塊の世代を中心に、特攻隊を侮蔑する人たちが少なくあり
日本の若い人たちも早く、 正体不明の"平和主義者" たちが唱える無責任な "軍事忌避論" から脱して、神風特攻隊の存在が非西欧各国
山本さんに31年間仕えた私には、彼ら特攻隊員達が無思慮に死に急いだわけではなく、熟慮の上で同朋を守ると言う使命に殉じたのだということがよくわかります。
追記3 最後の戦中世代・・・私の戦中体験。
私の生年月日は、何と1939年12月8日です。 偶然とはいえ数字の符合に驚きます。
1939年は、ヒットラーの機甲部隊がポーランドに侵攻し、WWⅡ が始まった年です。
12月8日は、日本の連合艦隊が真珠湾を攻撃して、日米戦争が始まった日です。
昭和39年は、私が大学を卒業して富士通へ入社し、東京オリンピックが開催された年でした。
幼児の頃、夜中に警戒警報で、電灯の傘に黒い覆いを掛けたり、空襲警報で、山の手の"岡公園" まで走ったり、その帰りに迷子になったり・・・、強制疎開で電報電話局の周囲の家が取り壊されたり、最後の数ヶ月間は、渡良瀬川上流の高津戸峡の近くの農家に疎開したりしました。
疎開先の山の上からも、中島飛行機の大工場があった太田の上空を米国の戦闘機が旋回しながら爆撃したり、機銃掃射したりする様子がよく見えました。
両毛線沿いの町は、大宮、熊谷、高崎、前橋、伊勢崎の順に空襲を受け焼け野原になっていましたから、来週は、桐生、再来週は、足利の筈でしたが、そこで終戦となりました。
ホロコーストを言うなら、こういう非軍事都市の無差別焦土爆撃を真っ先に挙げないのは何故でしょう? 戦前戦中を通じて、ドイツ政府からの牽制にも拘らず、関東軍参謀長としてシベリアからのユダヤ難民の満州への受け入れを認め、日本経由での米国への脱出まで支援した東条英機を悪魔呼ばわりするような欺瞞と詭弁にうかうかと乗せられて(若しくは共謀して)、彼らのお先棒を担いでいる反日日本人の再生産に歯止めがかかりません。
追記4 軍事抜きの復興は砂上の楼閣。
国際政治の奇麗事も一皮剥けば、いまだ弱肉強食の熾烈な競争に曝されているのが現実です。 一方で平和共存を模索するのは結構ですが、同時に、それが破綻した場合の生き残り競争への備えと覚悟を持ち続けることも必要です。 人種・民族差別論者、勢力は依然として隠然たる力を温存しています。 国連の安保理常任理事国を変えることが出来ないのは、彼らが WWⅡ 戦勝国たる既得権を手放す意志がない以上、当然のことでしょう。 日本がたまたま平和であったかのごとくに見えるのは、その方が彼らにとって都合が良かったからで、それが何時ひっくり返るかも彼らの都合次第だという覚悟もしておくべきです。
歴史上、既得権の保有国・階級・集団等が、自ら進んでそれを手放した例を、明治維新における大政奉還以外には、寡聞にして知りません。
私が、生命を賭してそれを成し遂げた勝海舟、山岡鉄舟、西郷南洲の3人に敬服する所以です。
WWⅡ 以降、平和が続いたと思っているのは、気の良い日本人だけで、富士通時代に付き合いのあった元銀行家の年配のスイス人などは、打ち合わせの途中、突然、"来月から兵役で1ヶ月失礼するので宜しく・・" と当然のことのように言っていました。 私が驚いて "そのお歳で銃を担いで訓練を受けるのか" と聞いたところ、始めは私が冗談を言っているのだろうと思ったらしく、まじめに答えようとしませんでしたが、そのうち私が本気で聞いているのだと判ると、逆に相手の方が驚いて、ここだけの話だがと断った上で、具体的に説明してくれました。 要するに "戦時経済の演習(シミュレーション)" に金融専門家として参画するのだと言うことでした。 "永世中立国家スイス" は全国民が常に臨戦態勢にあるのです。 平和を維持するには、平時からそれだけの覚悟と備えが必要だと言うことです
因みに、カナダが一番警戒しているのは、米国の動向で、そのために米国要人数万人の言行をデータベース化してマークしているそうですが、カナダでさえそこまでやっているとすれば、英仏露はもとより、中国、南北朝鮮やイラン、イスラエルは推して知るべしでしょう。 それは、彼らが、集団がある方向に動きだしたら個人の善意などではどうすることも出来なくなってしまうことを良く知っているからです。
殊更に事を構えるのは愚の骨頂ですが、奇麗事の裏には、団塊の世代を中心とするナイーブな日本人には思いもよらない陥穽が潜んでいる場合が多々あります。 迂闊に同調すると、結果的に相手を利するばかりでなく、場合によっては悪事に加担することになりかねません。 それが、仮に善意に基づく行動であっても、責任のある大人の国の、とりわけ政治指導者のとるべき姿勢とは言えないでしょう。
戦争は、私の "急性大動脈解離" と同様、いつどこで何が原因で起こるか(起こされるか!)判りません。 自分は戦争が嫌いでも(私だって好き好んで急性大動脈解離を発症したわけではありません!)、相手のあることを自分の都合だけで判断しても意味がないし、ましてや決めることなど出来ないことは、最近、大国の餌食になった幾つかの国を思い起こせば 分かるでしょう。 "日本だけは特別だ" という子供じみた議論を振り回す人に、"特攻" を批判する資格が有るでしょうか。 忘れた頃にやってくるのは、何も自然災害ばかりではありません。 戦争は、敗戦国日本(とドイツ?)以外の大国にとっては、依然としてタブーでもなんでもなく、最後の手段としての重要な外交手段の一つなのです。
追記5 東京オリンピックを線香花火に終わらせてはならない。
最後に、予科練の歌、鐘のなる丘、長崎の鐘、東京オリンピック入場行進曲のすべてを作曲し、激動の時代の夫々の転機において、その時代の若者を鼓舞し続けた福島の人 古関祐而の曲を紹介して、WWⅡ世代への挽歌の締めくくりとしたいと思います。
1964 東京オリンピック行進曲
因みに、史上初の競技速報データ通信システムは、日本IBM社が担当しましたが、メインスタジアムとなった国立競技場の大電光掲示板と直径数百メートルのスタンドの全ての位置で同時に聞こえる放送システムのネットワークを担当したのは、富士通技術陣でした。 日頃から "第2次日米戦は、技術戦争なり!" を持論にしていた山本さんにとっては、大型コンピュータでの対米決戦を控えた前哨戦のようなものだったかも知れません。
追記6 戦後世代への警告・・・古代カルタゴの轍を踏む無かれ。
あの頃までの日本には、まだ "痩せたソクラテス" が少しは居ましたが、それからの50年の間に、修羅場を知らない "満足せる豚" ばかりになってしまったようで、同じ国に住んでいる気がしません。 満足せる豚が充分肥えた時、突然、屠殺される日が来ないとは限らないという懸念が、WWⅡ 世代の杞憂に終わることを祈ります。
特攻隊員の遺書に習えば・・・ノチノ ニホン二 エイコウ アレ・・・
1939年4月の入社当時、配属先の直属課長(山本卓眞元富士通名誉会長)の持論は、「第2次日米戦は技術戦争なり!」でした。いま生きていたらきっとこう言うでしょう。「第3次日米戦は情報戦争なり!」
返信削除ただし、情報戦争とは単なる自己PRではありません。
返信削除軍事力を通奏低音とする巧妙な洗脳工作のことです。
最良の洗脳工作は捏造プロパガンダではなく、史実に抵触しない感動的な物語です。
と同時に戦争である以上、罠や騙し合いは禁じ手ではありませんし、公平な審判など居る筈がありません。
第三者を敵に回すか味方に付けるかも作戦のうちです。
それで負けるとすれば知恵が足りないからだと諦めるしかありません。
要するに、『勝てば官軍』 が全ての世界です。
そんなことは、古今東西、誰でも知っているはずです。
「部隊長自身は最後まで現地にとどまり、シベリアに連行され生還することはなかったとか・・・」
返信削除公の場ではそう言っていましたが、私達には、その後の消息は杳として不明で、自分達にも全くわからないと言っていました。
終戦の詔勅を聞いた後、特攻隊員たちに軽挙妄動を慎めと指示した後、帰国命令を出すまでの間、数日間、(奉天の関東軍本部で?)何を協議していたのかは未だに誰も知りません。日本史上最強の謀略組織であった関東軍が、何の条件もつけず全く無抵抗に武装解除に応じたのも謎です。世界史上、本国が占領された時には、国外に亡命政府を作って主権を維持するのが常識で、維新の際には榎本武揚が、函館に北海道共和国を作って日本国滅亡を避けるべく手を打ちました。強大な関東軍が連合軍による本土占領に際して、大日本帝国の滅亡を回避するために何らかの手を打たなかったとは考えられません。
北朝鮮は第2日本国だという「陰謀論」の存在する所以です。
https://www.youtube.com/watch?v=COyQIrc5Hv0&index=11&list=PLFWlNpXrLTWHm0CvbNSZNnid-KamB1sEE
そう考えれば、日本と北朝鮮が共謀して、米国が傀儡政権として李承晩に作らせた韓国と対峙している構図の説明が付きます。その場合、当然、毛沢東とも話しは通じていたでしょう。
事実は小説よりも奇なり、というのは此処でも有り得ることです。
こういう証言もあります。
削除https://youtu.be/6FstCKeTxkE?t=3m15s
満鉄の遺産・・日満の動脈『羅先特別市』(北鮮軍建軍の地!)
削除http://michi01.com/ohudohsama/392jyt26731101.html
核心に触れるビデオは片っ端から削除されてしまいます。
削除隠したいことがあるからでしょう。
「・・当時、終戦を口にしただけで暗殺されかねない状況だったことは、現に昭和天皇によるポツダム宣言受諾の裁断がなされるや、直ちに天皇軟禁のクーデターが企てられたことからも想像できよう・・」
返信削除戦争目的を決めるのは政治家で、軍人では有りません。
http://byoshonikki.blogspot.jp/2016/08/blog-post_14.html
本土決戦を敢行させることによって大日本帝国を無秩序状態に陥れ、そのどさくさに乗じて共産革命を実現するというのがコミンテルンの戦略だったことは明らかになりつつありますが、その首謀者が近衛文麿公爵だったというのは、嘘のような真実のようです。
https://youtu.be/9_o686farA8?t=24m・・宇野正美
宇野氏の断定を裏付けるようなメモを近衛自身が残しています。
削除公文書として有名ないわゆる近衛日記ではありません。そこには奇麗事しか書いてありません。
それとは別に、彼が常に座右においていたポケット手帳(今日のビジネスダイアリーのような物)のことで、私的なメモだということで遺品として遺族の元にあり公文書に含まれていません。
核心に触れるビデオは片っ端から削除されてしまいます。
削除隠したいことがあるからでしょう。
大日本帝国を無秩序状態に陥れ、そのどさくさに乗じて共産革命を実現する・・
返信削除同じ構図が3.11にも見られます。
あれは自然災害ではなく、ネオコン、CIA,モサドによる日本奪取工作だったというネット情報は完全に無視されていますが、たぶん本当でしょう。
同じ勢力に真正面から戦いを挑んでいるのがトランプ大統領だと言えば少しは納得してもらえるかも知れません。