体調の如何にかかわらず散歩に出かけることにしてから、かれこれ半月くらいになるが、流石にきつい。1キロほど先のコーヒーショップを目指して行くのだが、店につく頃には疲労困憊し、動悸は亢進するは、足は棒のようになるはで、居ても立っていられない気分になる。 店に入っても暫くの間は、コーヒーにも口をつけず目を瞑って気分の回復を待つようなありさまで、ここのところ数日、家まで辿り着けるだろうかとはらはらすることが多い。もちろん、基本的には、体調自体の良し悪しに左右されるのだが、途中での出来事によって元気が出てくることもあれば、また、その逆もある。 たとえば・・・ 10分程行った所(普通の人なら3分位?)に公園があるが、往復の途時、午後3時ごろまでに行くとよちよち歩きから10歳くらいまでの子供たちが遊んでいることが多い。 小さな子供が遊んでいるのを見るのは、それ自体が楽しいが、この公園で遊んでいる子供たちの場合、見ているこちらの方がはらはらするような場面でも、傍にいる若い母親たちが少しも騒がず、平然としているか、むしろ、叱咤激励する勢いだからである。 ああ、これなら自分たちの子供の頃とあまり変わらないなと安心する。
一方、いつも行くコーヒーショップでの当たり外れは大きい。場所が辻堂駅から慶応SFCへ行く大通りに面しているので、今週のように期末試験のシーズンになると、ノートやプリントと睨めっこしている学生を見かけるが、彼らの近くに席が取れたときは、現役時代、職場の近辺や通勤途中の駅のコーヒーショップで時間潰しをしたときの雰囲気で、大変落ち着く。 何よりも、誰も大声を出したり、のべつ幕無しに喋り続けたりする者が居ないのがいい。
ところが、今日のように、折角、学生たちの近くに席が取れたというのに、一人だけ、馬鹿丸出しのおばさんがいて、必要以上に大きな声、それも品のない声で、得々とくだらない話をしているのにぶつかった時はまったく閉口する。 私を含めて周囲に聞かせたくて喋っているのが見え見えである。 連れのおばさんは、低い声で相槌を打つだけだから、おそらく腐れ縁と諦めているのだろう。 こういう手合いはどこにでもいるが、本人にその自覚がないのだから、どうしようもない。 それでも一票が平等でいいのかと言いたくなる。 件の学生が最初からヘッドホンをつけていたので、最初は、' いまどきの学生は・・・' と呆れていたのだが、彼が上を向いて目を瞑り、じっと耐えている様子を見て、ヘッドホンをつけざるを得ない理由が、やっと判った。 いつもなら、30分もすれば、気分も多少良くなり、帰路につけるのだが、今日は、1時間近く、不快音を聞かされたので一向に回復せず、このまま此処にいたらえらいことになると思い、ほうほうの体で引き揚げてきた。 この間、苦痛に耐えながら、こういう手合いを無視するにはどうしたら良いかを、ずっと考えていたが、はたと気がついた。 昔の人は旨いことを言ったものだ。 「燕雀安知鴻鵠之志哉」 えんじゃく いずくんぞ こうこくの こころざしを しらんや 団塊世代のおばさん族よりも、団塊ジュニアの若いお母さんたちのほうが総じてまともである。ゾンビ世代の終焉も近そうだ。
2010年12月11日土曜日
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