チョコだらけ・・・
ピアノと英語を教えている娘が、投げてよこした上の句だが、後が旨くつながらない。 娘は目下、正岡子規の漱石に対する忌憚のないこき下ろしの句評(「病床六尺」に書いてある?)を面白がっており、多分それに刺激されて、冒頭の上句を思いついたらしい。(実際は、『妹の律に筆舌に尽くしがたい世話になりながら、悪口ばかり書き残して逝った正岡子規の口振りが、妻子に同じような苦労をさせながら文句ばかり言っている私とそっくりだ』 という議論を交わしたのがつい先日のことだから、ようやく天邪鬼の扱い方に慣れてきたのかも知れないが!)
それはともかく、いろいろ下の句を付けて答えてもけんもほろろにこき下ろされるので、なかなか手ごたえがあって気晴らしになった。 と言ってもまだ依然として駄目なものは駄目というレベルを脱したわけではないが、一応休戦状態にある。
例えば、
チョコだらけ・・・一つ食う毎 頭痛減り 酷評(こじつけ?)
(ここの所、娘が偏頭痛を訴えていたので)
チョコだらけ・・・いつの間にやら 空になり 酷評 (子供っぽい?)
(娘が、つい食べ過ぎちゃうとこぼしていたので)
チョコだらけ・・・食べた数より 残り減り 酷評 (品がない?)
(妻が、よく食べるので)
チョコだらけ・・・またまたお歳暮チョコばかり 無言(くどい?)
("だらけ" と "またまた" が呼応している・・・自画自賛)
ここのところ、娘は律に大いに共感を覚え、励まされているらしい。 と同時に、あれ程の親友である漱石の句に対する酷評を読んで、律に対する悪口もその類だと、ある程度、納得したのかもしれない・・・と思うのは私の独りよがりか・・・。
余談だが、巷間では、律を世に出したのは「仰臥漫録」という闘病日記であり、そこには、子規の妹に対する深情が吐露されていると言われている。 私もそのことに異論はない。 しかし、この2年間妻子の看病を受けながら、つくづく思ったのは次のようなことである。
「果たして律さんは世に名前が出ることを望んでいただろうか。 恐らくそうではあるまい。 ただ兄の喜ぶ顔を見たかっただけだったに違いない。 その意味では、子規は死後も律の気持ちを裏切ったということになる。 しかし、死後も人々の記憶に残ること・・・それが悪名であったとしても・・・を人生最大の念願とする多くの男子にとって、自分の一生をかけて尽くしてくれた恩人の名を後世に伝えたいと思うのもまた無理からぬことである。 その結果、律本人の意思の如何にかかわらず、後世、多くの人が励まされるとすれば、子規のやったこと・・・律にとっては傍迷惑で余計なことだったかも知れないが・・・も無駄ではなかったし、律を冒涜するものでもなかったことになる。」
これは、私自身家族や看護師、介護士の世話になるうちに、はたと気がついた事実である。 今後、高齢化社会の中で、これらを生業とする人々が決して忘れてはならないことであろう。
『世の中には名利よりも人助けを生き甲斐とするひとびとがいる。』
男でありながら、そうであるとすれば、聖人というべきであろうし、近世のわが国の歴史にその例を尋ねれば、山岡鉄舟に止めを刺す。
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