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2012年2月9日木曜日

故郷は緑なりき・・・忘れえぬスチール写真

日経朝刊 "私の履歴書" に、今月始めから女優の佐久間良子が登場していることは知っていたが、私は彼女の映画を見たこともなく、とくに関心を持っていたわけでもないので、記事に目を通してもいなかった。 ところが、先ほど食卓の上に放置されている新聞を片付けようとしてきちんと畳み直そうとしたところ、"故郷は緑なりき" と言う文字が目に飛び込んできた。

なぜこの、"故郷は緑なりき" と言う見てもいない映画の題名だけが目に付いたかと言うと、学生時代、何かの新聞の映画紹介欄に載っていたスチール写真の印象が強く残っていたからだ。 それは、清純そのものの女子高生が自転車で山道をこちらに向かって走ってくる所だったが、その光景に、周囲の景色とともに、私自身が高校時代、渡良瀬渓谷沿いの崖道を自転車で走った想い出と重なるものがあったからだ。
そうか、あの時の写真で見た女子高生は佐久間良子の少女時代の姿だったのか。 そう思った途端、今まで一度も美人女優として意識したことのなかった彼女に、無性に好感が湧いてきた。

早速インターネットで検索してみると、映画が実現するまでの紆余曲折やスチール写真の紹介記事は沢山出てきたが、私の記憶にある自転車に乗った美少女の写真は一つも見つからなかった。

2012年1月31日火曜日

元上司の訃報 ・・・山本卓眞さんからの宿題

昨日の新聞で、新入社員時代の元上司、山本卓眞富士通名誉会長の死去を知った。
去る1月17日に肺炎で急逝されたらしい。
私達の結婚式で主賓として、祝辞を頂き、夫婦でご挨拶に伺った方だから、当然、葬儀に参列しなければならないところだが、この体ではそうも行かない。 いずれ、騒ぎが収まってからご命日を選んで、墓参したいと思う。菩提寺が護国寺だと言うことは、20年くらい(?)前に、母堂フジヱさん の葬儀に参列した時から知っている。

ここでは、上司としての山本さんに褒められた数少ない思い出について書いて置くことにする。
入社4年目の1967年頃だったと思うが、私達は、社内コードORBS(online realtime banking system)なる社運をかけたプロジェクトに取り組んでいた。 一旦、日本IBM社に決定していた第一銀行普通預金システムのデュープレクス構成のうちオンライン側の一台を、富士通(古河鉱業直系)と第一銀行は運命共同体であるとの理屈でキャンセルさせ、全て国産技術で稼動させようと言う、無謀ともいえる壮挙だった。

それに先立つ半年の間、丸の内仲通りに面した古河総合ビルの1階ショールームに陣取った我々数人のSEは、昼夜兼行でモデルシステムを完成し、主要銀行の事務部門の幹部を招いたデモを成功させていたが、それは飽くまでもデモシステムに過ぎず、①性能や②信頼性、さらにはダウンした時の③リカバリー方式などは、暗中模索の状態だった。このデモプロジェクトで私が担当したのは、普通預金業務処理の全てを、数キロバイトのプログラムで動かして見せることだった。 主記憶装置のキャパシティー不足を磁気ドラムで補ったり、一つのビットを数通りに使い分けるなど、今考えると将に曲芸のようなプログラミングだったが、それも上記の①②③等を二の次にしたから出来たのであって、とてもそのままでは実用に耐えるものではなかった。
しかし、兎に角、我が社は、この見掛け倒しの張りぼてで第一銀行オンライン普通預金システムを受注し、1年後には首都圏100店舗で稼動させなければならないと言う、絶体絶命の瀬戸際に立たされることになった。

課題はハード、ソフトに渡って山積していたが、人々の注目は専らハードに集まっており、①②③のどれが欠けても実現しないことを真に分かっているものは、社内でも山本卓眞以下数人しかいなかったと思う。 これ等の難題のうち、私が担当したのは主として①と③だったが、①では "排他制御" と "応答時間"、③では、最近の用語で言えば "トランザクション管理" と "データのインテグリティー" に関して、国際的に確立された方式がなかった。 私達は、この2つの課題に対して、当時としては、最も進んだ解を見出したと思っている。
当時、クレジット・オーソリゼーション・システムで先行していた米国に前例が無かったのは、クレジット・オーソリゼーションでは、リアルタイムに残高を確定する必要が無く、即時更新を伴わない、所謂 READ ONLY SYSTEM しか無かったからである。

彼ら、米国勢からすれば、自国の1割にも満たないアジア市場の中でも、豪州やフィリピン・香港に比べて更に遅れている(と彼らは思っていたらしい)日本とか言う特殊な国の銀行の言い分など一顧だにも値しなかったのだろう。 日本IBM社の社長だった椎名武雄氏が、日頃から日本IBM社内で "Sell IBM in Japan, Sell Japan in IBM" をスローガンにして社員を鼓舞していたという気持ちが良くわかる。

当時、日本IBM社のSEが、虎の威を借る狐の如く傲慢だったことは、某銀行の事務部員からも聞いたことがある。 例えば、マニュアルがいただけないかと言う彼らの要請に対して、部厚い英文のドキュメントを何の説明も無く投げ与え、日本語の資料が欲しいと言うと、「何だ、英語も読めないのか・・・と言わんばかりの表情で一瞥しただけで、無視された」 と聞いたことがある。
何だか何処かの国との政府間関係のようだと思うのは私の思いすごしか・・・・。

③については、残念ながら根拠となる資料が手元にないが、①に関しては、山本さんに褒められたこともあって、未だに手元に残っているので、その一部を披露することにした。 褒められたと言っても文系社員としては、という前置きがあり、それに続いて本格的な理論モデルのヒントを与えられたにも拘わらず、忙しさを理由に真面目に取り組まなかったことが、ずっと気にかかっていたが、若しまじめにやっていたら今頃は国際学会で大きな顔をしていられたかも知れない。








お役所からご指導を受けた!?・・・その2

昨年12月26日の日記で触れた掲題の件について、昨日(2012.1.30)に当のお役所から電話があり、修復後の外壁の色が協定に違反しているといってきた。 何でも一部の住民から(誰からかは言ってくれない!)クレームが来ているのだと言う。 私は電話に出られないので妻が応対した。

当方としては、事前に当局へ連絡し、ご指導をお願いしていたのに、それに対して何の応答も無く、工事完了と同時にクレームを付けられて、それに応じなければならない理由は全くないと言い返し、クレームの申立人とその要件を文書で示すよう要請したが、言を左右にして一向に応ずる気配がない。 文書の件は1年前の隣家とのトラブルの際も申し入れてあるのだが、それに対しても梨の礫である。 証拠を残さず越権行為で相手に泣き寝入りさせる時の不要(不良?)役人の常套手段だということは、始めから分かってはいたが、改めて呆れ返った次第である。

押し問答の末、先方は、「行政としては、これで指導責任を果たしたことにする。従わないなら本庁に上げる・・」と言うので(脅かした心算かも知れないが)、「どうぞ」と言って電話を切った。
とにかく、彼らの保身ぶりは見事と言えば見事である。 1年も前から私の病状を知りながら、文書での意見交換の要請を無視し続け、今回も電子メールでの連絡要請に全く応えようとしないのだから、お上意識と責任逃れの習性も骨がらみというしかない。
たいていの場合、業者や組織人は、いわゆる "別件逮捕" の嫌がらせを恐れて、言うことを聞くので、それが習い性と成っているのだろう。

さて、次はどう言ってくるか見ものである。 最近は裁判で行政側が負けることがあるので、大禍なく任期を終わりたいお役人としては、この程度のことでそんなリスクは冒さないだろう。
となると、"一部住民" が業を煮やしてマスコミに駆け込むかも知れない(行政当局の言)が、それならそれで、相手がはっきりするから堂々と議論すればよいと思っている。

2011年12月26日月曜日

お役所からご指導を受けた!?

ある所に20年ほど前、借金して建てたいわゆるセカンドハウスが朽ちかけたので、なけなしの貯金をはたいて修復をしたところ、あるお役所から何かの規制に抵触していると言うご指導を受けた。
詳しいことは年明けに改めて連絡されると言うので、それを待つほかないが、それにしても、工事の完了後に指導していただいても、年金収入しかないリハビリ老人にやりなおす資金の余裕があるはずは無く、どういう事になるのか気がもめる話ではある。

こういう事件は、全国いたるところにある筈で、同じ立場に立たされてお困りの向きも多いと思う。参考までに、私の意見を述べておくので違っていたら遠慮なく指摘して欲しい。 ただし、前にも何度か述べたように匿名での反論はご遠慮願いたい。

事件のパターン
① 市民に奉仕する立場にある役人が、市民を指導すると言う趣旨が、良くわからない。
② 指導と言うのは、事前に行うものだと理解していたが、事前報告していたにも拘らず、工事完了後に指導すると言ってきたのは、一体何があったのだろう。
③ これらを、すべてお上意識と責任逃れのためだと解釈すれば、事は簡単だが、こちらに重大な瑕疵があったのかも知れず、一方的な判断をするわけにもいかない。

私の理解する行政とは
① 私の義父(山本達司)は群馬県館林市の助役を勤めたのち市長に押され、5期20年その職にあったが、職員の指導はしても、主権者であり、税金によって自分達を支えてくれている市民に対して指導などというおこがましい言葉を使ったことは無かった。 職員に対しては、怠け心への逃げ道を塞ぎ、公僕に徹することを求め、事あるごとにこう言っていたそうだ。
『能力のある者は能力で働け、能力のない者は体力で働け、体力もない者は真心で働け!』もちろん、市民のためにである。
② 駒場時代のクラスメートで今でも毎年4月の同窓会で顔を合わせる石川嘉延君は、ついこの間まで静岡県知事をこれまた4期16年務めていたが、彼の口から部下である県職員や国際経験の乏しい県議を教育すると言う言葉は聞いたかも知れないが、郷土静岡の県民を指導するなどといった言葉は聞いたことがない。 
③ 指導とは、あくまでも部下に対して行うものであって、主権者である一般市民に対しては、奉仕(サービス)ないし助言と言う言葉を用いるべきである。濫りに法に定めのない指導など行うべきではないし、実際、その多くは越権行為である。

駒場時代、法学部などに行く連中の気が知れないなどと嘯いていたが、こうして大組織を離れた一介の市民になってみると、彼らの方が遥かに大人だったなと思う。
おかげで人格識見ともに優れた多くのクラスメートに恵まれ、いつでも相談できるのだから、人生何が幸いするか分からない。

2011年12月24日土曜日

天皇誕生日に思う・・・皇室をめぐる外戚の姿勢

昨日は天皇誕生日だった。 本来ならば今日は先日中断した病状報告を続けるべきところだが、たまたま今朝の日経朝刊に連載中の新聞小説「等伯」を読んだら、秀吉が天皇家の外戚を狙っていたことを思わせるような記述があったので、急遽思いついたことを書きたくなった。
体調が思わしくないので取敢えず要点だけを列挙すると・・・

①信長は、天皇家以上の地位を狙ったために、近衛前久らの画策によって亡ぼされた。
②秀吉は、一代限りとの誓約を破って、豊臣姓の下賜を要求し、関白職の永続化を図ったばかりか、ことによると新たに親王を擁立して、天皇の外戚に成り上がろうとしたため、死後、家康らによって滅ぼされた。
③家康は、前車の轍を踏むことなく、正三位以上の地位を望まなかったので、その後15代に渡ってその地位を保つことが出来た。

以上は、すべて新聞小説から得た知識に基づく推量であるが、直接、資料に当る余裕がなく、一方、最近の小説家の史実調査は並みの歴史家以上なので、すべて信用することにした。

以下は、現代史に属する上、無責任な噂や異論があって、何かと当たり障りがありすぎるので、問題提起のみにとどめ、判断は読者各位に任せたい。

④ことの当否や理由は別として、正田英三郎氏は、一切皇室には関わろうとしなかった。
⑤小和田恒氏や川嶋辰彦氏のスタンスがどうかは、当事者に聞いてみるほかない。

2011年11月21日月曜日

急性A型大動脈解離からの生還3周年

一昨日(2011.11.19)で、この病気で倒れてから丸3年経った。
未だに、助けてくれた人々や看病に明け暮れながらずっと耐えてきてくれた妻子に感謝はしても、喜びと苦しみが合い半ばする状態が続いている。

(いろいろ書きたいが、今日は体調がもちそうもないので、この続きはまたにする。)

(2012.6.10 日が経ち過ぎたので、最近の投稿への返信からの転記で病状報告に代えさせていただくことにする。)

以下は、2012年6月3日土曜日
『解離性大動脈瘤』 と 『急性大動脈解離』の違い
に投稿された松原さんへの返信です。

松原さんと言い、その前の匿名の方と言い、お2人とも不屈の意志を持って、後遺症を克服されていこうとしておられるのに改めて敬服します。それに引き換え、生還の損得勘定ばかりしている自分は、何と後ろ向きなんだろうと反省させられること頻りですが、ここにきて、はたと気付いたことがあります。

強いて、言い訳させていただけば、お2人とも、まだ働き盛りの50歳前後で、その上、手術の直前まで意識があって、激痛と恐怖を体験され、死を覚悟された上で、自ら、助かりたいという選択をされているのに対し、私の場合は、それらの記憶が一切無く、つまり、助かったと言う感激が無く、ただ後遺症の苦痛と不快感しか体験していないということではないかと思っています。いままで、年齢のせいだとばかり思っていましたが、お二人の後遺症が決して私より軽いとは言えず、しかも、まだ働かなければならない立場にありながら、前向きな姿勢を知って、はたと思い当たった次第です。 それは、お2人とも命拾いをしたことを心から喜んでおられることで、分かりました。

私はと言えば、幸か不幸か助かってしまったと言う損得勘定から未だに抜け出せませんが、一年後には、こんな愚痴をお聞かせしなくて済むよう頑張る(顔晴ると書く女流文筆家も居られると聞きましたが)心算ですのでお気遣いなく、年寄りの愚痴とお聞き流しください。

最近、97年度のゼミ長だった教え子が、フェイスブックで私を見つけ、大学の研究室に残していただいている暦年のHP(情報貝塚)を見て感激し、関口ゼミ再結集の頁を起こすと言ってきてくれたのには、これぞ、教師冥利に尽きると言う気持ちで涙が出ました。 こういう時は、やはり、生きていて良かったと思う一瞬です。



2011年11月8日火曜日

日経春秋欄の石原莞爾論・・メディアリテラシー

メディアリテラシーと言う言葉がある。 パソコンが使えるかと言うような技術論ではない。 新聞・テレビ等における報道や記事の文面からは直接読み取れない意図を読むことである。 これは、朝日新聞社出身の同僚教授から聞いた話だから確かである。

そこで、今回は、日経朝刊2011.10.26の春秋欄を例にとって解説を試みることにする。
これは、一種の講義だから、正確を期すため敢えて全文を転載することにした。

関東軍の参謀だった石原莞爾が、のちの東京裁判で証人として言い放った言葉がある。 日本の戦争責任は日清・日露までさかのぼる・・・と迫る検事に、石原は「それならペリーを呼べ」。 幕末の開国こそすべての始まりだというわけだ。

平和にやっていた島国に黒船で押しかけ、侵略主義に走らせたのは米国じゃないか。 昭和陸軍の鬼才らしい反撃だが、外からの圧力を陰謀の如く受け止め、被害者意識にとらわれるのは幕末以来の日本人の習い性かもしれない。 環太平洋経済連携協定(TPP)への警戒論にも、そんな心情が見え隠れしている。

「TPPに入ったら日本の農業は壊滅し、地域社会も崩壊する」と農協などは激高するばかり。尊皇攘夷ならぬ尊農攘夷の様相だ。過保護にするだけが尊農でもないだろうが、ここにきて「医療も危ない」「外国人労働者が殺到する」と方々からの加勢が目立つ。姿は知れないのに、日増しに大きくなる影である。
幕末の開国も、すったもんだの末に通商が始まった。しかし関税自主権を奪われ、小村寿太郎が条約改正にこぎ着けたのは明治の末。やっと本当の攘夷を果たしたと小村は語ったという。かくも苦心の関税自主権を手放すのか、と息巻くTPP反対論者もいる。ペリーのもたらした呪縛の何という強さか。

以上が全文である。

大学入試の現代文の設問で、「この文章で筆者は何を言いたいのか、〇〇字以内で述べよ」・・と言われても、私だったら全く判らないとしか答えようがない。 何故なら、文面で見る限り、何も結論らしきことを言っていないのだから。
TPP に反対する人たちに悪印象を与えることを狙っているらしい口振りだが、はっきり賛否を明らかにしているわけではない。この匿名の筆者は、その真意を問われたら恐らく相手によって適当にはぐらかすに違いない。 これが、マスメディアが、はっきりした意図を持ちながら、証拠を残さずに読者をその気にさせる巧妙かつ卑怯な常套手段である。

ここで、細かいことを議論し始めたら限がないので、一応、私自身のメディアリテラシーのレベルでの推測を述べておこう。もし、春秋子に反論があるなら、実名でお願いしたい。

①春秋子は、TPPの是非について確信を持っていない。
②しかし、TPPに反対する人たちには組しないか、その振りをしていた方が安全だと思っている。
③そこで、外圧脅威論という一般論に摺りかえるという常套手段に訴えることにした。
④さらに、一般論を補強するべく、石原莞爾や、東京裁判を持ち出した。
⑤返す刀で石原の気概ある正論を被害者意識の一つに貶めると言う効果も狙った。

勿論、他にも、無数の解釈がありうる。

たとえば、今日(2011.11.8)の同紙朝刊一面の署名記事では、論説主幹の芹川洋一氏が、まことに明快な開国論を披瀝されている。 先の春秋欄の記事が書かれてから2週間の間に情勢がはっきりしてきたので、旗幟鮮明にされたのか、あるいは、日経社内でも異見が対立していたのか・・・。 われわれ部外者は、いくらでも想像できるが、そんな無責任な憶測に時間を費やしても意味がない。

私自身、卑怯者にはなりたくないので、自分の意見を述べておく。
①TPPに代わる選択肢は、見当たらない。(米国の国益に真っ向から対抗する力はない。)
②しかし、外圧は、常に警戒しなければ、裏に潜む真の脅威を見落としかねない。
③石原莞爾は、日米の戦力が拮抗するには、数十年かかるから、それまでの間は満州国から一歩も南進すべきではないと、非戦論を唱えた故に陸軍の中で孤立した愛国者であり、侵略主義者でもなければ外圧脅威論者でもなかった。 明治維新において、日清朝連合艦隊で欧米に対抗すべしと説いた勝海舟に比肩すべき気概に満ちた具眼の士である。

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