「存在と時間」 について
2010年9月21日の日経朝刊、「私の履歴書」 で哲学者、木田元氏がハイデガーの 「存在と時間」 について書かれている。 要するにさっぱり分からなかったと言うことである。 氏だけではなく、他の日本の研究者も、ドイツの研究者にも分かっていない、あるいは、分かっていないのに分かったつもりでいる連中は大勢いたということであるが、早い話がハイデガーはドイツの大学に職を確保するため何かそれらしき論文を書かなければならなかっただけだ。 私に言わせれば、 彼の言う “Dasein”など駆け出しの禅僧が悟りもしないのに 「悟った!」 と思い込んで老師に一喝される魔境の類に過ぎない。 しかし、それにしても 「存在と時間」 というタイトルは流石というべきか。 かく言う私なども、高校生の頃、きっとそれを読めば、禅の悟りに近い思想が論理明快に述べられているに違いない、 少なくとも 相対性理論 よりは一歩先に進んでいるだろうと期待したものだ。
同じ日の日経夕刊、「プロムナード」 に、これまた哲学者の森岡正博氏が「時間の流れの真の意味」 と題する体験談を書かれている。 要するに一言で言えば、この一瞬はこの宇宙(時空と言うべきか)で、自分だけの体験する一瞬であり、しかも、次の瞬間にはもう存在しない・・・と言う趣旨であった。 「存在と時間」 の饒舌が徒に繰り返す “Dasein”よりこの方がよほど簡潔で明快である。
流石、日本の哲学者は違う、と感嘆したいところだが、これとても、まじめな禅僧が修行の初期に体験する通過点の一つに過ぎない。
こんなことは何百年も前に、「色即是空、空即是色」 の八文字で言い尽くされている。 勿論、それを体感することと、単に概念として理解することとは全く次元を異にするものであることを否定するつもりはない。 私自身、まだ概念としてすら理解できたとは言えない。
しかし、仮に 「色即是空、空即是色」 を体感できたとしてもまだその先がある。 つまり、何故、「空即是色」 なのかが体感できなければ悟ったとはいえないのだ。 禅語の中にその答ないし答のヒントを求めるとすれば、「因果必然」 に行き着くしかない。 私が因果の無限集合連鎖モデルを提唱する所以である。
https://byoshonikki.blogspot.com/2015/01/blog-post_23.html
「存在と時間」 について
2010年9月21日の日経朝刊、「私の履歴書」 で哲学者、木田元氏がハイデガーの 「存在と時間」 について書かれている。 要するにさっぱり分からなかったと言うことである。 氏だけではなく、他の日本の研究者も、ドイツの研究者にも分かっていない、あるいは、分かっていないのに分かったつもりでいる連中は大勢いたということであるが、早い話がハイデガーはドイツの大学に職を確保するため何かそれらしき論文を書かなければならなかっただけだ。 私に言わせれば、 彼の言う “Dasein”など駆け出しの禅僧が悟りもしないのに 「悟った!」 と思い込んで老師に一喝される魔境の類に過ぎない。 しかし、それにしても 「存在と時間」 というタイトルは流石というべきか。 かく言う私なども、高校生の頃、きっとそれを読めば、禅の悟りに近い思想が論理明快に述べられているに違いない、 少なくとも 相対性理論 よりは一歩先に進んでいるだろうと期待したものだ。
同じ日の日経夕刊、「プロムナード」 に、これまた哲学者の森岡正博氏が「時間の流れの真の意味」 と題する体験談を書かれている。 要するに一言で言えば、この一瞬はこの宇宙(時空と言うべきか)で、自分だけの体験する一瞬であり、しかも、次の瞬間にはもう存在しない・・・と言う趣旨であった。 「存在と時間」 の饒舌が徒に繰り返す “Dasein”よりこの方がよほど簡潔で明快である。
流石、日本の哲学者は違う、と感嘆したいところだが、これとても、まじめな禅僧が修行の初期に体験する通過点の一つに過ぎない。
こんなことは何百年も前に、「色即是空、空即是色」 の八文字で言い尽くされている。 勿論、それを体感することと、単に概念として理解することとは全く次元を異にするものであることを否定するつもりはない。 私自身、まだ概念としてすら理解できたとは言えない。
しかし、仮に 「色即是空、空即是色」 を体感できたとしてもまだその先がある。 つまり、何故、「空即是色」 なのかが体感できなければ悟ったとはいえないのだ。 禅語の中にその答ないし答のヒントを求めるとすれば、「因果必然」 に行き着くしかない。 私が因果の無限集合連鎖モデルを提唱する所以である。
https://byoshonikki.blogspot.com/2015/01/blog-post_23.html
https://byoshonikki.blogspot.com/2025/01/zen-as-science-my-hypothesis_1.html
Zen as Science
返信削除part1 : my hypothesis.
Japanese Zen js a philosophy about life and nature.
Who am I? it's obvious. I can answer confidently.
What is myself? I can't answer confidently.
For true ZEN prctitioners, it’s the most serious and important purpose to find that.
So' let me show you my hypothesis.
Myself is unknown something, isn’t mortal, repeat physical lives.
It’s myself that gave my physical lives birth into this world, my parents only helped that.
All my physical lives are mortal, don't recogunize each other usually.
All physical lives leave somethig (spiritual?) after their death.
Every physical life has some influence on following lives.
All physical lives have some influence on myself, then, my present destiny is not free from unrecokcgnized preceding lives of myself.
miself=S(Σalllpreceedig lives of myself.)
milife=L(miself, Σalllpreceedig lives of myself)
What are these function S, L?
Whoever intersted in this hypothesis, look at my blog below.
(all in japanese, postgraduate level)
https://byoshonikki.blogspot.com/2023/07/blog-post_29.html
https://byoshonikki.blogspot.com/2018/03/scientific-modelling-of-zen-concepts.html
https://byoshonikki.blogspot.com/2025/01/zen-as-science-my-hypothesis_1.html