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2014年1月14日火曜日

いつの時代にも変わり者はいる・・母方の祖父もそうだった

一昨日、日曜日の日経13面、"日曜に考える" のページに連載されている特集記事 「熱風の日本史」 に、"第20回12月8日の「青空」" と題して、開戦の報に接した、文学者等の狂喜する様が紹介されている。

その記事を読んで、昔、母から聞いた母方の祖父、増田藤太郎の逸話を思い出した。
父をはじめ周囲の者が,、みな、勝った、勝ったと高揚しているのを見ても、少しも嬉しそうな顔をせず、父の居ないところで祖母や母達に、「負けるに決まっているのに、益男さんは、勝ったといって、あんなことを言っている・・」 と言って、家族の顰蹙を買ったと言う。
母達は、「また、お父さんはそんなことを言う、憲兵の耳にでも入ったら大変だから・・」 と言って黙らせようとしたらしいが、祖父は、「負けるに決まっているのに、負けると言って何が悪い・・」 と言って耳を貸そうとしなかったので、母達は、ハラハラしたそうだ。

「また、お父さんはそんなことを言う・・」 と言ったのは、以前にも、周囲をハラハラさせるような言動に事欠かなかったからだ。

例えば、昭和九年に北関東で陸軍特別大演習が行われた際、母の実家の離れは、総司令官であった賀陽の宮や将校の休憩所に当てられ、舘林高女の4年生だった母は、皿に乗せた林檎を供したという。
その際、祖父は、宮様には敬意を表して、特別に林檎を差し上げたものの、その他の将校には一平卒と同じ握り飯しか出さなかった。
周囲が、「そんな失礼なことをしたらとんでもないことになる・・」 と言っても一切おかまいなし、「文句を言う将校が居たら、そんな怪しからん奴は追い出してしまえ・・」 といって押し通したところ、将校等は、文句を言うどころか、丁重に謝辞を述べて辞したそうだ。

私が、戦前の軍人がみな傲慢で非人間的だったなどという俗論に組しないのは、直接接した軍人にそんな人間が一人もいなかったこともあるが、幼時に聞かされた祖父の言動によるところが大きい。

要するに、軍人がみな傲慢だったわけではなく、多くの場合は、周囲の者が卑屈すぎたのだ。(注)

因みに祖父は、小学校しか出ていなかった。
それが、どうして所謂文化人達が狂喜する中で、直ちに敗戦を確信していたのか、学歴と知性に何の関係もないことを、これほどはっきり教えてくれる例を知らない。

祖父は、配色濃厚になってきた頃、「今に、町の連中が、有り金持って米を貰いに来るから見ていろ・・」 と言っていたそうだが、それも図星だった。

その祖父も、流石に、農地解放と預金封鎖で、全財産を失うことになるとは、夢想だにしなかったようで、昭和25年、私が小学校5年生の時、失意のうちに(或は達観して?)世を去った。

子孫に美田を残さずと言う生き方をして、言葉どおり遺産らしい遺産を残さずに、その1年前に世を去った父方の祖父とは対照的な人生観であったが、2人とも世間の風潮に流されなかったという意味で、私にとって畏敬すべき身内である。

(注) もちろん、怪しからん輩は、何処にでも居た。
例えば、ラバウルで終戦を迎えた父の弟、武叔父は、上官の理不尽な命令には絶対従わなかったので、随分嫌がらせも受けたが、そのうち、新任の士官が来るたびに、「関口、お前凄いんだってな、お手柔らかに頼むよ・・」 と挨拶に来るようになったという。 そのかわり、本来なら最低でも軍曹くらいにはなって然るべきなのに、最後まで伍長止まりだった。

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