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2014年5月7日水曜日

日本語論・・その三: 「日本人は何か考えているのか?」と「日本人は何を考えているのか」の違い!

洋書の和訳は掃いて捨てるほどあるが、その逆は皆無に近い。
「源氏物語」や「つれづれ草」の英訳本はあっても、「折りたく柴の木」や「原敬日記」の英訳本は無い!
これでは、マッカーサーやキッシンジャーに子ども扱いされても文句は言えない。

有史以来この方、日常の知的活動がすべて日本語で行われて来たということは、一体何を意味するか。
その理由
その結果と功罪
国を挙げて取り組むべきこと(政府すら自覚していない!)
無駄かつ有害な対策(政府がやっていることの大半!)

書きたいことは単行本1冊分もあるが、小保方氏なみの体力もない私には作法に従って引用文献にあたり瑕疵の無い著作に仕上げる余力が無い。
しかし、随筆(エッセイ)という雑文なら、独断と偏見が許される。
片山さつき氏が、クールジャパン推進の効用の一つとして、「反日勢力の捏造史観が既成事実化され、それを否定することが世界のタブーになってしまった以上、公式に反論すればするほど日本叩きの材料にされてしまう。しかし、漫画やアニメに限らず、芸術家が表現の自由に守られた創作の世界でそのタブーに縛られない作品を公開することは出来る・・」と言っているのは卓見だと思う。

ついでに言えば、理論物理学だろうが純粋数学だろうが、オリジナルな仮設はすべて独断と偏見です。明治以降の日本の洋学者が人類の世界観を変えるような成果を挙げられないのは、欧米に先例の無い研究は、周囲の実力者(教授etc.)から、欧米に先行研究が無いというまさにそれを理由にテーマ選択の段階で却下されてしまうからです。
やたら、引用文献リストの多い著作は、それだけ正確なのではなく、それだけオリジナリティのない、学習報告に過ぎないと言うことです。

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