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2016年10月17日月曜日

占領行政の帰結---官僚による主権の代行と誇りの喪失

・・1945年の敗戦から5年間にわたり日本国民は連合国の占領下に置かれることになった。
占領行政については一般に日本国憲法の制定や農地解放などに焦点が当てられてきた。
しかし、ここでは、もう一つの重大な事実を指摘したい。

それは、連合軍総指令部(GHQ)が日本に君臨していた5年間、名目上は国権の最高機関であった国会が事実上機能停止状態にあったということである。
非占領国の主権が制約されるのは、それ自体当然のことであるが、問題はそれによって何がおこったかということだ。

GHQの占領行政を実質的に代行していたのは当然ながら日本官僚機構であった。
つまり、主権者を代表する国会が機能停止していた5年の間、行政官僚が立法府の機能を代行していたわけである。
言い換えれば、この間、新生日本の国権の最高機関である国会は、新憲法によって与えられた強大な権力を行使するための訓練を受けることができず、代わって官僚がその運用法に習熟することになった。

そして、GHQが去った後、国家意志を発動する技術に習熟していたのは本来それを運用する資格のない官僚だけという状況が生じていた。
そこで彼らは「超集権国家体制による対欧米列強戦争の遂行」という40年体制の国家意志をそのまま踏襲して戦後の経済戦争に臨んだのである。
この第二次対列強戦争における戦果のめざましさについてはいまさら多言を要さない。それは、戦時下に形成されたインフラが戦後の経済発展の強力な基盤となった例として、ナチスドイツにおけるアウトバ-ンに比肩するものと言える。

しかし、このような「功」に対して、「罪」もまた小さくはなかった、それは占領下に確立された官僚による主権代行の変則体制が、ダイナミックに変化する国際情勢に対して日本が主権国家として適切に行動する能力を奪ってしまったことである。
つまり、官僚は、それがいかに優秀であろうとも、体制の中での主権代行者である以上、体制そのものを時代環境に適応させていく当事者能力は持ちえなかったということである。

・・・・「競争的広域行政機構による郷土の再興」(1993年 関口)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sekiguchi_prof/ryakureki/tk_prize.htm#senryougyousei

1 件のコメント:

  1. 80年代まで日本の政財官界は、第2次対米戦争を戦っている姿勢を持っていましたが、日本のGDPが米国を抜き世界の首位に躍り出たレーガン大統領の頃米国の対日警戒心が一気に高まり、超党派の『対日競争力調査委員会』が発足、MITのサロー教授をリーダーとして徹底的な調査研究が行われました。議会に提出された報告書はその後『Made in America』と題する書籍として公開されていますが、そこにはトヨタのカイゼンや看板方式など日本製造業の強さの源泉が詳細にわたって分析されているだけでなく、サービス業の生産性の低さを始めとする日本産業全体の弱点まで丸裸にされています。
    日立、三菱電機、富士通の技術者がCIAの囮捜査に引っ掛かって逮捕されたのも、プラザ合意で円が大幅に切り上げられたのも、不動産バブル崩壊で邦銀が国際金融業務から相次いで撤退したのもこの頃です。
    80年代の内に日米の競争力は劇的に逆転し、その後の20年が失われた20年と言われたことは周知の事実です。
    これは、米国が国家戦略として決行した日本打倒作戦であり、第2次日米戦争とも言うべきものでした。
    この敗戦以降、日本の政財官界は、米国と渡り合う戦意と気概を失い、対米追随(盲従)路線を走り続けているというのが実態でしょう。

    彼らが戦後ずっと米国の犬だったわけではありません。岸内閣が1960年に目指した安保改正は、改正であって決して改悪ではありませんでしたし、通産省や経団連も大企業の対米作戦本部としてやる気満々でした。
    何しろ、八幡製鉄の規模はUSスチールの十分の一、トヨタ、日産もGMの十分の一、富士通などに至ってはIBMの数十分の一、その他あらゆる業界のトップ企業が米国トップの十分の一以下という時代だったのです。
    http://byoshonikki.blogspot.jp/2012/01/blog-post_31.html#kibo

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