ページ

ページビューの合計

2011年3月11日金曜日

"科学的" とは "大雑把" ということである!

2011.3.9 の日経経済教室に慶大教授の大垣昌夫氏が "文化の違いと人々のふるまい" と題して、伝統的経済学の限界と行動経済学による解明を論じられている。 しかし、いわゆる伝統的経済学に限界があることは、ceteris paribus(Other things being equal) の公準に準拠する以上、当然であり、それは、行動経済学についてもいえることである。

じつは、私がここで言いたいのは、経済学に限らず自然科学を含めてあらゆる科学に限界があるということだ。

そもそも、科学とは、森羅万象を細分化して細かく見ていこうという考え方で、 "科" 学 という言い方からしてそれを如実に表している。 つまり、くどい言い方をすれば "分科学" とも言うべきものである。 それはそれで良いのだが、そのための方法として、ceteris paribus の公準に頼らざるを得ないところに問題と言うか難点がある。

およそこの世に、Other things being equal などということがありうるはずが無い。 それを百も承知で、仕方なくその仮定を置いているのが、科学というものであり、したがって科学で解明できるのは、飽くまでも大雑把な傾向であって、決して物事の正確(精密?)な把握ではない。 その意味では、"精密科学" だとか "総合科学" だとかいう概念や用語は、それ自体が語義矛盾に陥っていることになる。

1 件のコメント:

  1. 禅僧が不立文字を唱え、単純化した理屈で物事を理解することを峻拒するのはそのためである。すべての事象は関連している。数学的に言えばすべての事象は、無限の過去からの無限の原因の結果の総合である以上、総合的に判断するコンセプチュアルなアプローチの方がより本質的な真実の理解には重要だということである。

    返信削除