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2010年3月26日金曜日

帰去来の辞(その3)

里心が付いたついでに、母校(桐生高校)の掲示板への投稿から、桐生出身者で故郷をを離れて暮らす方々に関係のありそうなところを抜粋して掲載することにする。


2010/02/14(Sun)
発端・・・50年のご無沙汰を詫びる。

桐生高校同窓会の皆様
100年史編纂幹事 木本様

私は、昭和33年卒業の関口と申します。  ・・・・ 卒業以来、これまで一度も同窓会に出たことがなく大変忸怩たる思いでおりましたが、一昨年の11月、何の前触れもなく急性大動脈解離という危険な病気を発症し、10時間におよぶ手術の後、4ヶ月間の入院生活を余儀なくされました。

おかげでこの1年間は恩師や友人たちにも音信不通の状態が続き大変迷惑をかけてしまいました。1年たって漸く少し元気が出てきたので、何時死んでも良いようにと身辺整理をはじめたところ貴殿からOB図書館構想の葉書が届いていたのに気がつきました。

はじめ、桐生出身でOB図書館を飾るのは、日本人で最初にプリンストン大学教授になられた岩澤健吉さん(注:桐中出身ではなかったが) や、椎茸の養殖に成功された 森喜作さんのような一流の方々だけだろうと思って、そうなれなかった自分の不勉強をなげくだけでしたが、そのうちハッと気がつきました。

桐高(に限らず桐生)の後輩たちにとって、先輩の中に上記の方々のような超一流の人物がいるというのは何ものにも代えがたい宝物でしょうが、同時に多くの後輩たちにとって、一流をめざしながら能力不足や努力不足、あるいは不運のためそうなれなかった先輩が残した著作や論文もかえって励みになるのではないか、と思ったのです。というわけで恥を省みず拙著(共著書、論文)を別便にて送らせていただきます。

追伸1
岩澤家の次男が大秀才であることは当時、“どこそこの誰が” にやたら詳しかった祖母からも聞いたことがあります。 いずれにしても桐生の生んだ世界の大数学者であり、物理学でいえば湯川秀樹以上の偉人です。 この会の対象ではないかも知れませんが、ぜひとも桐生市の名誉市民に推薦したいと思っています。

追伸2
“どこそこの誰が” で思い出しましたが、祖母から聞いた話をもう一つ。 「森さんちの○男坊も困ったもんだねー。京都帝大まで出たのにキノコなんかに夢中になっておかしくなっちゃったらしいよ。」

今でこそ桐生の生んだ偉人として悪口なんぞ言う人は一人もいないと思いますが、当時の桐生の“良家のご婦人がた”のあいだでは白い目で見られていましたし、森さんのお母さんご自身も、がっかりしておられたようです。そんな周囲の目には、まったく “目” もくれずにひたすら信念を貫かれた森喜作さんの偉大さを桐高の後輩たちに知ってほしいと思います。

因みに10年ほど前、妻と一緒に格安のパックツアーで九州1周のバス旅行に参加した際、バスが大分県の臼杵地方に差し掛かったとき、ガイド嬢が、京大生森喜作と貧しいキノコ採りの母娘の物語を始め、九州の小学生で森喜作と桐生の名を知らない子供はいない・・・ と言ったのには感動しました。

大学教員時代に重慶工商大学から私の研究室に来ていた若い講師から、中国の小学生で東北帝大と藤野先生の名を知らない子供はいませんと言われたときと同じ感動でした。 一応、日本嫌いで通っている江沢民が来日のおり、東北大学医学部の階段教室をたずね、その昔、いつも魯迅が腰掛けていたという席に座って 中国人でこの席に座りたいと思わないものはいない・・・ と言ったとかいう話を思い出しました。

追信3
桐高同窓会のホームページを見たら既にOBリンクの表示が有りましたので早速申し込み手続きを済ませました。


2010/03/07(Sun)
30年度、1年生のときのマラソンについて

全校マラソンで完走し、ゴールのところで林檎を丸かじりしたときの味と2階の教室に戻るときの足の痛さを記憶しています。 コースの正確な記憶はありませんが、10キロコースだったことは確かです。 赤岩橋を渡って広沢へ抜け、そのあと金桜橋から戻って来たのかどうか・・・ まさか昭和橋じゃないだろう。

3年生の中には、途中トラックに便乗してズルする者もいました。 4位に入った佐藤勇五郎君は同じクラス(C組)の野球部員でした。 彼のほかにも野球部員が2~3人いたと思いますが雪合戦などで彼らが投げる雪礫の恐ろしさは今でも覚えています。 しかし、それほどの彼らもついに正選手にはなれませんでした。 当時の桐高野球部のレベルが如何に高かったかの証左でしょう。

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