朝、うつらうつらしていると、何とはなしにこの歌が思い出されてきました。
高校3年生(昭和32年)のときの大ヒット曲です。
踊り子(唄:三浦洸一)
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_b567.html
さよならも言えず 泣いている
私の踊子よ ああ 船が出る
天城峠で 会うた日は
絵のように あでやかな
袖が雨に 濡れていた
赤い袖に 白い雨……
月のきれいな 伊豆の宿
紅(べに)いろの 灯(ともしび)に
かざす扇 舞いすがた
細い指の なつかしさ……
さよならも言えず 泣いている
私の踊子よ ああ 船が出る
下田街道 海を見て
目をあげた 前髪の
ちいさな櫛も 忘られぬ
伊豆の旅よ さようなら……
2015年4月27日月曜日
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http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_b567.html(二木紘三 うた物語)...
返信削除「私の踊り子・・」ではなく、「渡しの踊り子・・」ではないか、という ikutahide さんの疑問に対して賛同者が皆無だったので、以下のコメントを投稿しておきました。
・・ikutahide さんの "渡しの踊り子" 説に賛同なさる方は居られないようですが、私は、むしろ、この方が詩人の感性の理解としては自然なのではないかと思います。理由は以下の二点です。
①「泣いていた」なら、心象風景の想起と考えられますから、「私の心の宝物」という意味で「私の踊り子」が正解だろうと思いますが、この作詞家は、詩集まで出している優れた感性の持ち主ですから、そんな生の表現をするとは思えません。この唄がヒットした頃、私は高校2年生でしたが、私たちは当然のように「泣いていた」と歌っていました。「泣いている私の踊り子」では即物的で詩にならないことを無意識に感じ取っていたのだと思います。今回、ikutahide さんの指摘で、これは心象風景ではなく眼前の情景描写だったのではないかと思った次第です。いま当に岸を離れようとしている渡船に立ってこちらを見上げて目に涙を浮かべている踊り子の姿、・・この方がずっと万感の思いを堪えた切ない気持ちが胸に迫ってきます。
②私たち戦前の日本を経験している者にとって、「別れ」と「渡船」の結びつきは、ごく普通のことでした。
私の祖父母は利根川を横断する「赤岩の渡し」の両岸にある群馬側の萱野村と埼玉側の俵瀬村の出ですが、祖母は渡し舟で嫁入りしたそうです。俵瀬を振り返ったときの祖母の目には涙が浮かんでいたに違い有りません。
佐田啓二・高峰 秀子主演の映画、「喜びも悲しみも幾年月」の中にも、渡船で島を離れる青年が、目を潤ませながら見えなくなるまでじっと立っている場面がありました。
恐らく、喜志邦三氏は、両者を掛けていたのではないでしょうか。