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2010年5月17日月曜日

地方分権の是非

極楽蜻蛉の国らしく・・・ と書いたついでにもう一つ言っておきたくなった。 地方分権の是非については、さまざまな角度から論じられているが、殆ど全て極楽鳶のざわめきに近い。昨日の日記で、国家不要論者と議論しても仕方ない・・・と言ったものの黙っていられなくなった。

順不同で申し訳ないが幾つかの盲点ないし矛盾を指摘しておきたい。

① 『修身斉家治国平天下』
とは、中国古代の戦国時代から2000年以上変わらない人間社会の大原則である。しかし、これは、飽くまでも、『修身』⇒『斉家』⇒『治国』⇒『平天下』 の順序でなければならない。 『修身』 だけで一生を終わってもまったく差し支えないが、これ無くしてまともな家や国はありえない。 敗戦後は、修身=道徳=戦争礼賛 というわけの判らない洗脳教育(占領軍の置き土産)の再生産が(彼らの犬とその後継者達によって)未だに続いている。 それでも生まれつき筋のいい若者達が、本能的に 『修身』 につとめ、どこかの国が支配している 『天下(国際社会と言うらしい)』 で(ローマの剣闘士のように)奮戦しているのは健気であるが、考えてみれば痛ましい限りである。
まして、彼らをおだてながら 『修身』⇒『斉家』⇒『治国』 を素っ飛ばしていきなり 『平天下』 を論ずる無責任な 『国家不要論者』 の跋扈には我慢ならない。 即刻、国外退去を命ずるか、国籍を剥奪して然るべきである。

② 『地方分権』
の語呂がいい所為か、根拠の無い線引論が横行している。 線引きは飽くまでも 『郷土』 を単位とすべきだというのが私の主張である。 ここで言う郷土とは 『原風景を共有しうる地域』 の意であり、同時に 『愛郷心を共有しうる地域』 の意でもある。 たとえば、私の家は祖父の代から群馬県桐生市に住み、私自身、高校時代までをそこで過ごしている。その私にとって郷土という意識が持てる地域は、市内を貫流する渡良瀬川の流域で、同じ方角に同じ姿の赤城山を望む地域、いわゆる両毛地区であり、その中には栃木県に属する足利市や佐野市も含まれる。断じて、前橋や高崎を含む「群馬県」ではないのである。要するに 『地方分権』 は 『原風景の共有によって支えられた愛郷心』を基礎としなければ、砂上の楼閣と帰すか、さもなければ、権力の争奪戦に堕すだろう。 どちらにしても大部分の住民にとっていいことは何も無い。書きたいことは、山ほどあるが 、いずれ洗脳されたゾンビ世代が死に絶えれば黙っていても、古来の真理が貫徹するだろうから、あまり騒がないことにしよう。


追記:上記に関しては、その後の情報ネットワークの発展を考慮しなければならないことは言うまでもない。その影響をどう考えるかに関しては、下記の論考を併せて参照されたい。

「情報技術の進歩と都市概念の変容」(「都市問題研究」:都市問題研究会 2001.1)

2010年5月15日土曜日

『解離性大動脈瘤』 と 『急性大動脈解離』の違い

極楽蜻蛉の国らしく米軍基地忌避論と某元野球監督の解離性大動脈瘤発見のニュースが喧しい。
前者について国家不要論者と議論しても仕方ないので、後者について付言しておきたい。

まず最初に、2月19日の日記 『同病の著名人たち』 から引用させていただくと・・・

昨日の日経に載っていた週刊誌の広告で、作家の立松和平氏が去る2月8日、解離性大動脈瘤で死去したことを知った。氏には道元田中正造に対する関心を共有することで以前から親近感を抱いていたので、ぜひ一度会いたいと思っていたが、それも果たせずに終わってしまった。

私の『急性大動脈解離』と氏の『解離性大動脈瘤』の異同を述べれば限が無いが、要するにいったん『大動脈瘤』という瘤状態を経由するか否かの違いだと考えれば当たらずとも遠からずである。
いずれにせよ発端は何らかの事情(私の場合は未だに原因不明)で大動脈の中層に動脈血が流れ込むことによって発症する。激痛を伴い、数時間内に死亡するのが一般だそうだが、私の場合幸か不幸かその記憶すら無い。

この投稿も終わらぬうちにテレビのニュースが、“必殺仕事人”こと俳優の藤田まこと氏の訃報を報じていた。こうして大動脈瘤や大動脈解離と言う疾患が俄かに有名になるのを喜んで良いものか、複雑な気持ちである。


TVのニュースは、専ら 『瘤』 の話に集中して 『解離』 はいつの間にかどこかに消えてしまったかに思われる。その理由は、多分、こういうことだろう。

① 『瘤』 に比べて 『解離』 は、生存率も小さい。 
② 『瘤』 に比べて 『解離』 は、説明が難しい。
③ もっとポピュラーになってから扱った方が得策である。  

そう考える理由を私の経験から挙げると

① 4ヶ月間の私の入院中に2件の同病患者が救急車で送られてきたが、いずれも複数の病院を盥回しにされた後、ようやく到着した時は既に死亡していた。 つまり、死亡率100%である。 しかし、このデータは手術における救命率にはカウントされない。
② 私は心臓血管外科の病棟に入院していたが、私の病因と症状をきちんと理解していたのは、主治医と看護師長、主任看護師くらいのものだった。
③ 私自身、銀行のCD障害や年金記録のトラブルについて何度かTVでコメントを求められたことがあるが、TVが説明の対象としているのは、いわゆるミーハーであり、 『大動脈瘤』、 『解離性大動脈瘤』、 『大動脈解離』、 『急性大動脈解離』 の違いを正確に理解しようとするような人たちではない。

そこで、ここでは、『大動脈瘤』、 『解離性大動脈瘤』、 『大動脈解離』、 『急性大動脈解離』 の区分をざっと説明しておくことにする。

① 大動脈は、内中外の3層から出来ており、これらがくっついたまま外側へ膨らんで瘤を作るのを一般に 『大動脈瘤』 と呼んでいる。
② 3層のうち何らかの原因で内層に出来た切れ目から比較的柔らかい中層に血液が流れ込み内層と外層がはがれていくのを 『大動脈解離』 という。
③ 『大動脈解離』 のうち解離が進行せず瘤の状態で小康を保っている場合を 『解離性大動脈瘤』 と呼ぶが、これは、後になって結果的にわかることが多い。
④ 『大動脈解離』 のうち瘤の状態を経ず、いきなり剥れて行く場合を 『急性大動脈解離』 と言い、最も死亡率が高い。 とくに心臓の出口に近い所からはがれだした場合(Stanford classification, type "A" )、内壁から漏れ出た液体が心嚢内に充満し、その圧力で心臓の拍動を阻害して心停止に至るケース(心タンポナーデと言うそうだ)が多く最も致死率が高いと言われている。

この急性大動脈解離は、さらに予兆(一過性脳虚血発作)があってから実際の解離が顕在化するまでの時間で、超急性発症後48時間以内)、急性2週間以内)、亜急性2週2カ月)、慢性2カ月以降)の4種類に分類されているらしい。 私の場合、発症の瞬間を含めて直前2ヶ月間の記憶が全くないので、自分では何とも言えないが、妻の記憶では前日の午後、だらだら坂を上りきったところにある我が家へ自転車で辿り着いた時の私の顔が尋常ではなかったと言うから、それが最初の予兆だったとすれば、超々急性と言うことになる。

最近、TV等のメディアが取り上げるのは殆ど③であり、④で救命できた例を聞いたことがない。 私の場合は、その意味で、周囲の医療関係者から奇跡的だといわれる所以である。
例えば・・・

 主治医は、自分の手術の成績を病院のホームページに公開しているほどフェアな人だが、手術後のICUで植物状態の私を介抱しながら 『先生、助かりますよね』 と問う妻に対して、決して 『ええ、助かりますよ』 とは答えなかった。
 元都内大病院の外科で看護婦長だった叔母が、義姉の通報にいったんは 『よくある病気だから心配ない・・・』 と言って慰めてくれながら、1月ほどして私が食事を摂れるようになったと聞いたとたん絶句したと言う。 叔母に言わせると、私には未だやる事があるのだそうだが・・・はて、いったい何だろう?
 退院後、リハビリのため通院している時、バッタリ出会った看護師がまるで幽霊にでも出会ったような表情を見せた。

一般に紹介される例は、全てといって良いくらい事前の検査で予兆がつかめているケースであり、体調から病院側の態勢まで万全の準備が整っている場合ばかりである。
しかし、『急性大動脈解離』 とくに『超急性大動脈解離』は、いつどこで起きるか知れず、はたして適当な病院があるか、またそのとき有能なスタッフの手が空いているか、さらには近くに誰か頼れる人がいるか等々・・・そもそも限られた時間内に手術ができるかどうか、条件が揃うのは奇跡に近い。


私の場合、それが可能だったのは

① 発症したのが朝9時ごろだった。
② 授業の無い水曜日で家にいた。
③ 妻が救急隊員の示した病院(茅ヶ崎徳洲会総合病院)を直ちに承諾した。
④ 救急隊と病院側の連絡が緊密で到着した時には、準備万端が整っていた。
⑤ 一人しか居ない心臓外科医の手が空いていた。
⑥ 執刀医が優秀だった。

等々・・あらゆる好条件に恵まれたからである。

今にして思えば、このような一見の超救急患者を手薄な陣容の元で受け入れ、救命に漕ぎつけたK医師の胆力と技量には、感謝以前に敬服、脱帽するしかない。

私の人生観
茅ヶ崎徳洲会総合病院には、2001年に前立腺癌で手術を受けた時以来、定期的に検査のため通院していたが、私は泌尿器科の主治医が気に入っており、妻はそのことを十分承知していた。
前立腺癌で手術を受けることを決めた時、学長から必要なら然るべき権威を紹介する用意がある旨の配慮をいただいたが、どんな名人の手に委ねても死ぬ時は死ぬ。 然らば誰に命を委ねるか・・・ それは権威でも技量でもない。 この人になら命を委ねても良いという気持ちになれるかどうか、それを運命だと受け入れる気持ちになれるかどうか・・・ それは 『縁』 だ・・・というのが私の人生観である。
今回の手術では、意識の無い私自身が救命を望んだわけでもなく、病院や医師を選んだわけでもなかったが、はからずも、もう一つの好縁を得ることになった。



追記(2012.10.21)

これまで2年以上に渡って、投稿が1件もありませんでしたが、今年に入ってお二方の投稿を掲載させて頂いて以来、ブログ全体の中でこの項目に限って、立て続けに匿名の投稿が届くようになりました。しかし、私としては、"潜在的に悩んで居られる方々が声を上げるきっかけの一助にはなったかな" と思うと嬉しい反面、気力・体力ともに対応しきれず困惑して居ります。何しろ右手の指一本で、ポツポツと入力しなければならず、それも体調の良い日にしか出来ないので、他の作業がすべて停まってしまいます。 幸い、この2年間に本疾患の詳細な解説サイトも増えてきましたし、これ以上素人の私が書くのは差し控えたいと思います。 と言うわけで、今後は本来の方針に戻って、匿名の投稿はお断りさせて頂くことにしました。

もちろん記述内容に重大な瑕疵があったり、どなたかにご迷惑がかかるような場合は、直ちに訂正あるいは削除するに吝かではございませんが、その場合は必ず関口宛の個人メールで実名でお申し越し下さるようお願いいたします。
メールアドレスは、本ブログの "詳細プロフィール" や、"ホームぺージ(一期一会 Our Eternal Moment)" 、"フェイスブック(関口益照)"  などに明記してありますのでそちらをご覧ください。

元々私の人生観に "共感" してくださる方が一人でも居られれば(死後でも!)と始めた作業ですので、もしそんな方が居られましたら是非メールをいただければ "望外の幸せ" と思っております。

2010年5月1日土曜日

喉元過ぎれば熱さを忘れる

病状の軽快と共に、それまで如何でも良いと思っていたことがやたら気になり始めた。

国家や政治家は勿論、サラリーマンやスポーツ選手、果ては家畜や野生動物でも、何でもそうだが、ハングリーでないと向上心が無くなるというのが “凡人” の常だというのは、恐ろしいほどの真理である。

以下はとりあえず気になってきた どうでもいいこと の例である。

2010年2月5日金曜日 生還の損得勘定 のところに 300年にわたる白人優位思想の終焉 と書いたが、これは飽くまでも白人優位思想の終焉であって、白人優位の終焉 ではない
優位にあるものがそう簡単に既得権を手放すことはありえない。 それは最近の官僚と政治家の醜い争いを見ても分かることだ。 これなどは蝸牛角上の争いに過ぎないが、これからの100年間は血みどろの人種間抗争が続くはずである。 それをいちばん良く知っているのは恐らく中国の指導者で、彼らは必死になって生き残りの方策を模索しているに違いない。 日本人もそろそろ本気になって、米中どちらの属国になって生き延びるか考えた方が良い。

どうでもいいこと の例を挙げだすと限が無いので、せめて一つくらい どうでも良くないこと を書きたくなった。

同じ日の 生還の損得勘定 の終わりの方に 書いたことを再掲すると・・・

しかし以上の2点をどうでもよいと思うほど感動したのは、ノーベル賞を受賞された小林博士の夫人がTVのインタビューに答えて語ったつぎの一言だった。夫人は小林氏の母堂が氏の受賞を見ずに他界されたことに触れそれが一番の心残りだといった後、こうつぶやかれた。
・・でも 人生ってそういうものですよね・・

未だに 佛家一大事の因縁 を大悟徹底するに到っていない私にとってこれを超えるを言葉を耳にしたことは無い。 

2010年4月25日日曜日

最近の病状

この4月18日で発症から丁度17ヶ月経ったことになる。 最近は食器洗いだけは手伝えるようになった。 尤もそれも気分しだいで、まったく出来ない日もあり、妻から見ればリハビリに協力してやらせてくれているようなものだ。 いちばん難しいのは、大皿を右手に持って左手でスポンジを使うというもので、良くぞこれまで落とさずにやっていると自分でも感心する。
しかし、左手や右腿の痺れ、自律神経の変調などは相変わらずで、感情の起伏と体調の変動は、むしろ激しくなってきたとさえ感じられる。 総じて、できる事が増えてきている反面、心身の不快感は一向に減らないどころか、むしろつのっていると言った状況である。 気温と体感温度の違いのようなものと考えれば、当たらずとも遠からずと言えようか。

ICU のベッドで、植物状態だった頃、妻が主治医にこう言ったそうだ。
『 ・・・生まれたばかりの子供を育てるつもりで、2年間は覚悟しています・・・ 』
すると、それまで、夫が元のように動けるようになるかについて、何を聞いても曖昧に答えるだけだった主治医が、にっこり笑顔を見せて、 『・・ご家族の親身な努力がいちばん大切です・・ 』  と答えたそうだ。 要するに医師としては何も出来ないと言いたかったのだろう。

妻や娘の献身については、『看病=菩薩行 の所でも書いたが、これは当事者になってみなければ、本当には判らないものだ。 そのことには心から感謝している。 もう一度こういうことがあっても同じ苦労はさせたくない。 妻には 『 こんどこういう危険な手術が要求されても受諾するな。こんな苦労は一度で十分だ。 時節到来と明らめて大往生させてくれ 』  と言い渡してある。
最近も老々介護の悲劇が報じられたが、 “楽にしてやる” のを殺人罪に問うなら、同様に “苦しませ続ける” のも、拷問罪に問うべきだ。 戦後日本の法体系の似非人道主義にはまったく腹が立つ。 医師や法律家たちは、自分たちが人助けにのみ貢献していると思っているかもしれないが、同時に意図せざる “拷問” “困窮死” に加担しているかも知れないと思う恐怖を感じていないのだろうか。
 

2010年4月16日金曜日

兄妹3人・・We are three!

誰でも生きているうちに言っておけばよかったと後悔することがあるものだ。
父や母に対しては、たいていの場合、間に合わない。
しかし、自分が親になってみればわかることだが、親が子供に何かを期待するのは煩悩にすぎない。
仮に子供が不孝者だったとしても、まともな親は悲しむことはあっても子供を恨んだりはしない 人生を感情だけで判断することは許されない。親には自らの選択で子供を作った責任というものがある。
(自らの意思で相手を選んだといえば、妻や夫は、その最たるものだが、これは、同じ縁でも次元の異なる縁だという気がするので、別に述べたい。)

また、兄弟や子供達も、生まれるかどうか、さらに、どのような親兄弟を持って生まれてくるかを選ぶことが出来ない。では、それを親の責任に帰することができるかといえば、それで片付く問題でないことは、まともな人間ならすぐわかることだ。

中には、恨みたい親兄弟(姉妹)もいるだろうし、謝りたい親兄弟(姉妹)、さらには、感謝したい親兄弟(姉妹)もいるだろう。親に対する後悔は、その昔から先に立たないのが通例だから諦めるとして、せめて兄弟(姉妹)に対しては人生のスタートから行を共にした伴侶として恩愛を超えた感謝の気持ちを伝えておきたいと思う。

私の場合、それは、二つ年上の兄と三つ年下の妹である。

兄は、父親が死んだ後、病身の母と妹を引き取り、まさに親代わりとなって、私には一切負担をかけずに面倒をみてくれた。私は、何も出来なかったが、いざという時は、運命共同体としていつでもとって代われるようにという気持ちだけは持ち続けてきた。妻子を持ってからは、その余裕も無くなり心苦しい限りだが、今回の病気入院を機に、これが自分の限界ならば潔く受け入れるしかないと思うようになった。
所詮、生涯、家長としての兄の恩義に甘えさせてもらうことになりそうだ。

妹とは歳が近かったせいもあり、特別の思い出が沢山ある。
あまり沢山ありすぎて、何から話せば良いのか判らないくらいだ。
生まれながら心臓の隔壁に穴があり、そのため血中酸素が不足して少し運動しただけで息切れする体だったが、それが判ったのは 50歳を過ぎてからであった。
もちろん、その間手を拱いていたわけではなく、中学生になった頃から幾つもの大学病院で、それこそ死屍に鞭打つような検査を受けたが、眩暈と息切れ、手足の痺れと空咳等の症状から心臓隔壁の欠陥を指摘してくれるところはなかった。それが判ったのは、いつも通っていたT病院の担当医が定年退職し、替わって担当することになった非常勤の女医(大学の先生とか)の初診のときだった。彼女は 「こんな初歩的な誤診は考えられない。医療過誤で訴えるなら協力します。」 とまで言ってくれたそうだ。
すでに60歳に近く、痩せ細り気力・体力の限界に達していた妹は、自分のそれまでの苦痛の訴えが決して我儘からではなく、心臓畸形のためだったことが判っただけで (その結果、家族の本当の理解が得られただけで) 十分だと言って、年老いた医師 (誤診しただけでなく気が付いた後も隠していた) を深追いしようとしなかった。

5歳の頃の妹は、普段、赤い着物を着て遊んでいたが、不細工な私と違ってまるで日本人形のように可愛らしかった。
我々が、強制疎開で空き地になった広場で ビー玉遊びをやっていたときのことだ。そばの縁石に腰掛けて弁当を食べていた2人の米兵が妹に向かって手招きするので、みんな何だろうと思って見ていると、妹がやっと抱えるような大きな缶詰らしいものを渡された。
戦後で碌なものも食えず、ひもじかったとはいえ、決して乞食のように恵んでもらうことなど考えず、角の牧田のおじさん(元陸軍の研究者でいつも米兵が立ち寄っていた)に教わった片言の英語で Have you any chewing gum? などとやって、皺くちゃの一円札と交換していた我々は、突然の米兵の行為(好意?)にびっくりした。
慌てて町内の床屋(岩折さん)に持ち込み、客の大人たちに件の缶詰の中身が何だろうと聞いてみたが、英語の読めるものが1人も居ず、若しかすると爆発するかもと言いながら、缶切であけてみると真っ赤などろどろした液体が詰まっているのが目に入った。
みんなこれはきっと人間の血だと言って気味悪がり、下水に流してしまったが、今思えばあれはきっとトマトジュースだったのだろう。そのときは気味悪がったものの、60年後になって気持ちが伝わるのだから、あの時の若い(恐らく10代の)米兵の好意も決して無にはならなかったということだ。

10~12歳の頃の妹は、背も高く華やかで、学年でも目立った女の子だった。
家計に余裕が無かったのでピアノが買えず、桐生で1軒しかない楽器店(紋谷さん)からレンタルで借りたオルガンで練習していたが、これも市内で唯一のピアノ教師であった紋谷姉妹からこれまで教えた生徒の中では、斉藤昌子(義理の叔母の従妹)さんとお宅の泰代さんが一番上手だと褒められた。
実際、西小学校の講堂で開かれた発表会を覗いた兄の友人も吃驚していたのを思い出す。

中学・高校時代の妹は、155センチを限界に成長が止まり、(心臓の負担能力以上には成長できない と言うことが判ったのは40年以上たってからだ。)体育の授業も見学することが多く、可哀想だったが、それでも健気に大学へ進学した。高校時代の女性の数学教師に憧れたとか言っていた。

とくに忘れられないのは、私が東大に合格した時、それまで1人で桐生の外に出たことの無かった妹が、前橋まで行って、全音階(半音を含めて!)が出せるハーモニカ を買ってきてくれたことだ。
ピアノもバイオリンも出来ず、小学校で習った木琴とハーモニカしかやれない私が、日頃から、「桐生には半音の出せるハモニカを売っている店が無い」と嘆いていたのを知っていたからだろう。
このハーモニカのお蔭で、それまで、旨く吹けなった世界名曲集のすべての曲を吹奏できるようになった。その後、幾つかの弁が欠けてしまい、使えなくなってしまったが、今でもケースに収まったまま、すぐ後ろの本棚においてある。


大学時代の妹は、『喫茶店でのお喋り』 など、大学生活の楽しみとは無縁の毎日を過ごしながら、必死の思いで卒論を書上げ卒業した。
このときのテーマは確か、東北王朝に関するもので、苦しい体を押して東北大学の有名な教授に面会までしてきたと言う。
私も資料集めを手伝い、定説に一部反論を試みる構想作りに協力した。今でも、その時、東大図書館で集めてきたマイクロフィルムのコピーが手元にある。
これも、すぐ後ろの本棚においてあり、私にとっては、全音のハーモニカと共に一生の宝物である。


妹に謝らなければならないことが、沢山有るがわざわざここに書かなくても本人にはわかっていることだと思うので敢えて書かないことにする。

高校時代の英語の教科書に William Wordsworthの詩で"We are seven!"というのがあった。

Wordsworth, "We Are Seven" - English Poetry in Japanese


これに倣えば、私たち兄妹は、いつも "We are three!" である。

2010年4月10日土曜日

大学の同窓会に行ってきました。




クラス会総会への出席報告
(返信メールの転載で失礼します)


35年東大L1-6組の皆さんへ

昨日、いやもう一昨日になってしまいましたが、まさか、再び皆さんに会えるとは思っていませんでした。
主治医や看護師たちの言うように奇跡的に幸運だったのでしょう。
しかし、実際には波が激しく一昨日も午前中はどうなることかと心配でした。
諸君に会えるのが余程うれしかった所為かも知れません。

今回の病気でつくづく感じたのは、この種の大病で一番苦労するのは、本人よりもむしろ家族だということです。
そのへんの消息も含めて、ホームページとブログ(HPから入れます)に書きましたのでご笑覧ください。
皆さんに直接関係のありそうなところは、

追憶十話: その3・・・文1-6組の仲間たち
病床日記: 2010.2.2(満足セル豚よりも痩せたソクラテスになれ・・・)他
50年前の今日: 当時の日記帳からの抜書き(原文のまま)と注釈

その他も、老人のノスタルジーに徹していますので、赤城山渡良瀬川に興味のある方、地方分権に関心のある方はご一覧ください。
HPは、すべて手作りですので、体裁はご容赦ねがいます。
なお、私の主義として、ビジネスや広告の類は一切載せていませんのでご安心ください。

2010.4.10
関口益照

2010年4月2日金曜日

2年ぶりの大学同窓会

10年くらい前から東大文科1類6組の同窓会が毎年開かれるようになった。
幹事の堺君が熱心なのと、大出世した数人の旧友たちがいずれも、いい奴ばかりで偉ぶらないことが大きいと思っている。

一昨年、昨年と続けて欠席せざるをえなかったので、今年は是が非でも出席してやろうと意気込んでいる。一昨年の11月に発病して以来1度も東京へ行ったことが無いので、当日どうなるか保証の限りではないが、今年行かなければ、他にチャンスガ無いような気がするので思い切って出かけることにした。

場所は、飯田橋のホテルメトロポリタンエドモント、日時は4月8日の18時半だというので、当日の昼から妻の車で出かけ、その日はそのまま一泊することにした。いざとなったらそのまま寝込んでしまえばいいというわけだ。ホームページの 追憶:十話・・・その3 に書いた面々が皆出席するらしいので今から楽しみにしている。