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2010年4月25日日曜日

最近の病状

この4月18日で発症から丁度17ヶ月経ったことになる。 最近は食器洗いだけは手伝えるようになった。 尤もそれも気分しだいで、まったく出来ない日もあり、妻から見ればリハビリに協力してやらせてくれているようなものだ。 いちばん難しいのは、大皿を右手に持って左手でスポンジを使うというもので、良くぞこれまで落とさずにやっていると自分でも感心する。
しかし、左手や右腿の痺れ、自律神経の変調などは相変わらずで、感情の起伏と体調の変動は、むしろ激しくなってきたとさえ感じられる。 総じて、できる事が増えてきている反面、心身の不快感は一向に減らないどころか、むしろつのっていると言った状況である。 気温と体感温度の違いのようなものと考えれば、当たらずとも遠からずと言えようか。

ICU のベッドで、植物状態だった頃、妻が主治医にこう言ったそうだ。
『 ・・・生まれたばかりの子供を育てるつもりで、2年間は覚悟しています・・・ 』
すると、それまで、夫が元のように動けるようになるかについて、何を聞いても曖昧に答えるだけだった主治医が、にっこり笑顔を見せて、 『・・ご家族の親身な努力がいちばん大切です・・ 』  と答えたそうだ。 要するに医師としては何も出来ないと言いたかったのだろう。

妻や娘の献身については、『看病=菩薩行 の所でも書いたが、これは当事者になってみなければ、本当には判らないものだ。 そのことには心から感謝している。 もう一度こういうことがあっても同じ苦労はさせたくない。 妻には 『 こんどこういう危険な手術が要求されても受諾するな。こんな苦労は一度で十分だ。 時節到来と明らめて大往生させてくれ 』  と言い渡してある。
最近も老々介護の悲劇が報じられたが、 “楽にしてやる” のを殺人罪に問うなら、同様に “苦しませ続ける” のも、拷問罪に問うべきだ。 戦後日本の法体系の似非人道主義にはまったく腹が立つ。 医師や法律家たちは、自分たちが人助けにのみ貢献していると思っているかもしれないが、同時に意図せざる “拷問” “困窮死” に加担しているかも知れないと思う恐怖を感じていないのだろうか。
 

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