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2010年5月17日月曜日

地方分権の是非

極楽蜻蛉の国らしく・・・ と書いたついでにもう一つ言っておきたくなった。 地方分権の是非については、さまざまな角度から論じられているが、殆ど全て極楽鳶のざわめきに近い。昨日の日記で、国家不要論者と議論しても仕方ない・・・と言ったものの黙っていられなくなった。

順不同で申し訳ないが幾つかの盲点ないし矛盾を指摘しておきたい。

① 『修身斉家治国平天下』
とは、中国古代の戦国時代から2000年以上変わらない人間社会の大原則である。しかし、これは、飽くまでも、『修身』⇒『斉家』⇒『治国』⇒『平天下』 の順序でなければならない。 『修身』 だけで一生を終わってもまったく差し支えないが、これ無くしてまともな家や国はありえない。 敗戦後は、修身=道徳=戦争礼賛 というわけの判らない洗脳教育(占領軍の置き土産)の再生産が(彼らの犬とその後継者達によって)未だに続いている。 それでも生まれつき筋のいい若者達が、本能的に 『修身』 につとめ、どこかの国が支配している 『天下(国際社会と言うらしい)』 で(ローマの剣闘士のように)奮戦しているのは健気であるが、考えてみれば痛ましい限りである。
まして、彼らをおだてながら 『修身』⇒『斉家』⇒『治国』 を素っ飛ばしていきなり 『平天下』 を論ずる無責任な 『国家不要論者』 の跋扈には我慢ならない。 即刻、国外退去を命ずるか、国籍を剥奪して然るべきである。

② 『地方分権』
の語呂がいい所為か、根拠の無い線引論が横行している。 線引きは飽くまでも 『郷土』 を単位とすべきだというのが私の主張である。 ここで言う郷土とは 『原風景を共有しうる地域』 の意であり、同時に 『愛郷心を共有しうる地域』 の意でもある。 たとえば、私の家は祖父の代から群馬県桐生市に住み、私自身、高校時代までをそこで過ごしている。その私にとって郷土という意識が持てる地域は、市内を貫流する渡良瀬川の流域で、同じ方角に同じ姿の赤城山を望む地域、いわゆる両毛地区であり、その中には栃木県に属する足利市や佐野市も含まれる。断じて、前橋や高崎を含む「群馬県」ではないのである。要するに 『地方分権』 は 『原風景の共有によって支えられた愛郷心』を基礎としなければ、砂上の楼閣と帰すか、さもなければ、権力の争奪戦に堕すだろう。 どちらにしても大部分の住民にとっていいことは何も無い。書きたいことは、山ほどあるが 、いずれ洗脳されたゾンビ世代が死に絶えれば黙っていても、古来の真理が貫徹するだろうから、あまり騒がないことにしよう。


追記:上記に関しては、その後の情報ネットワークの発展を考慮しなければならないことは言うまでもない。その影響をどう考えるかに関しては、下記の論考を併せて参照されたい。

「情報技術の進歩と都市概念の変容」(「都市問題研究」:都市問題研究会 2001.1)

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