去る6月18日、元富士通会長秋草直之氏が都内の病院で死去した。
秋草さんと始めて会ったのは、入社2年目(1965)にデータ通信技術部(川崎工場)で銀行オンラインシステム開発プロジェクトに配属され基礎調査やトイモデル(Toy Model)の机上試作をやっていた頃のことだ。
技術部にはバッチ処理の専門家がいないので、丸の内の本社から第一人者として来て貰って1時間ほど質疑応答に応じて戴いたのが最初の出会いである。
班長(プロジェクトリーダ)だった山村先輩(後の加藤栄護専務システム本部長)が、「なかなかいい男だなぁ・・」 と褒めていたことを覚えている。
私とは一つ違いだったが、2年浪人して入社した私にとって、入社4年目で3年先輩の彼は、仰ぎ見る存在だった。
その後も、システム本部時代、富士通総研時代を通じて直属の部下になったことはないが、何かと関わりがあった。私がプロジェクトリーダとして開発したアプリケーションパッケージ(APFS)にはどちらかというと批判的だったが、その残党に開発させた信用組合向けアプリケーションソフトを彼の所管する農協プロジェクトに転用しないかと社内有償取引を持ちかけた時は、前例が無いにも関わらず、上機嫌で応じてくれた。
そのとき彼が言ったのは、ソフト開発をビジネスとして考えるべきだということだった。
後年彼が社長として推進したソフト・サービス事業シフトは、その頃から、いやそれよりずっと以前から彼が折に触れて主張していた持論だった。
富士通のソフト・サービス事業に対する私の意見は、飽くまでも一時的収益事業の一つに過ぎず、①「問題児」、②「花形」、③「金のなる木」、④「負け犬」のカテゴリーで言えば、②または③であって、いずれ④に陥る運命は免れないというものだ。
富士通の将来は、飽くまでも、①問題児(シーズの研究開発)に如何に注力するかに懸かっているというのが私の確信である。
これは、流通・公共サービスから出発した彼と、技術部から出発した私の見方の相違だろう。
その秋草さんと職場以外で会ったのは2度だけである。
1度目は妻と結婚した73年ごろ、2人でちょくちょく出かけた横浜元町の陶器店で、ベビーカーを押しながら店内を見て回っているご夫妻とばったり出くわしたときだ。
2度目は、富士通総研時代、中国社会科学院との共同プロジェクトで北京のホテルに一泊した時のことだ。この時はちょうど富士通が人民大会堂を借り切って総合展示会を開いていた時期と重なり、富士通側の責任者として滞在していた彼と、エレベータの出口で、これまたばったり出くわすことになった。
そのときの彼は、テニスラケットを抱えており、中国政府の要人とテニスをやってきた帰りだと言っていた。
当時、仕事での関係は、私は富士通総研の取締役、彼はお目付け役の評議員の1人だった。
あれから既に20年以上経つ。
謹んでご冥福を祈ります。
2016年6月24日金曜日
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故人のことを言いたくは有りませんが、正直なところ金融システム部門に対する彼の態度は冷たかったと言うのが実感です。彼が専務に昇格する前に転職しなかったら危うく直属の部下になってしまうところでした。
返信削除従業員は役員に近づくほど勝ち残りしか念頭になくなります。
返信削除宮仕えをしていると知らず知らずのうちに status seeker に成り下がってしまうのが私達凡人の性です。
その歯止めは『志』だというのが山本卓眞さんの持論でした。
しかし、それは、遥か入社以前、少年時代にすでに決まってしまいます。
その年齢は、江戸時代は15歳(元服)、戦後も50年代までは大半が中卒で就職する15歳でしたが、60年代以降学歴インフレで歯止めが無くなり、幼稚化が進む一方でした。(現在の22歳は50年前の15歳です)今度の18歳選挙権が元服に変わる新たな通過儀礼になれば幼稚化にストップがかかるのではないかと期待しています。
勿論、定着するまで少なくとも2世代はかかると思いますが、・・。