禅の世界で最も論理的だと言われている道元すら最後に残した言葉はは、不立文字、只管打坐です。
大拙、漱石らはその入り口で断念していますし、最後の禅僧と言われ、私の祖父や宮沢賢治も師事していた原田祖岳もそうでした。
http://oureternalmoment.web.fc2.com/ryakureki/inga_hitsunen_model.htm
私が高校生のころから「禅概念の科学的モデル化」をライフワークとして東大進学を決めたのもそのためでしたが、どうにも歯が立たず今日に至っています。
ごく最近、丸山眞男もそうだったらしいと知って親近感を覚えたことは以前ここでも触れたとおりです。 彼らが最後に想定していた日本思想を一言でいえば、真理は成り行きそのものにある、ということのようです。
つまり、日本人が無意識に共有している世界は、予定調和でもなく、さりとて無秩序でもない無限の生成過程とでもいうべき時空だということです。
したがって、それを面白くするのもつまらなくするのも各人の営為次第ということになります。
随所に主たり」という禅語はその謂でしょう。
もしそうだとすれば全国民が、無意識のうちにこのような世界観を共有するに至った淵源は何かという疑問がわいてきます。
分からないのは当然ですし、一概に言えないのも当然です。
私としては、丸山眞男がどこまで日本思想の根源に迫り、それをどこまで西欧流の論理で説明できたかに注目したいと思います。
松岡正剛氏の丸山眞男論の続編が待たれます。
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