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2015年1月10日土曜日

日経 "春秋" 欄のダブルスタンダード・・風刺は良くてテロは論外?

日経 "春秋"  欄のダブルスタンダード・・風刺は良くてテロは論外?

仏紙の風刺に対するイスラム教徒の報復が世間を騒がせている。
私にとっては、どっちもどっちだと言うレベルの問題だが、春秋子にはそうではないらしい。
手塚治虫まで引き合いに出して縷々風刺の意義を論じたうえで、「風刺にも節度が必要だが銃弾による封殺は論外だ」 と一刀両断に切り捨てる一方、「言論による封殺」 にはお構いなしである。

メディアを支配する者が、ことの是非を問わず、暴力を否定し、言論・表現の自由を不可侵の絶対価値のように喧伝するのは、自分たちの既得権を守り、恣意的な世界観(江藤淳の言う『閉ざされた言語空間』)に閉じ込めておきたいからに他ならない。

言論を封じられた弱者が言論以外の手段で抵抗するのは当然である。
チベットやタイでの焼身自殺は擁護し、イスラム教徒の自爆テロを非難する論理は何処から来るのだろうか。いずれも暴力的抵抗であることに変わりは無いのだ。
「言論の自由」がそれほど厳しく追及されるなら、同時に「言論の責任」もそれ以上厳しく追及されて然るべきである。
言論の自由を標榜する者は、つねに、自らの言論が、不特定多数の或る人々に対する無差別拷問や、未必の故意による殺人を犯しかねないことを知るべきだ。
自分たちが、相手に対して死よりも辛い言語的暴力を加えながら、相手からの物理的暴力に怯えるなど、まさに怯懦を絵に描いたようなものである。
フランス人でも、アンドレ・マルローやエバリスト・ガロアだったら、フランスの恥だ!と言って嘆いたろう。
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/gaikoku_kamikaze/andre_malro.htm

暴力否定論者に是非教えておきたいことがある。
無抵抗主義者と言われ、西欧から "賞賛" されたマハトマ・ガンジーの言葉である。
「・・私を無抵抗主義者と呼ぶのは、正しくない。私達に銃があれば銃を取って戦うだろう。銃が無いから、已む無く不服従と言う手段で抵抗するしか無いだけだ。」
インドが最終的に独立できたのは、日本軍の支援によって設けられたインド国民軍による武力反撃があったからだった。

2 件のコメント:

  1. 奪われし者が、それでも自分の考えや主張を護って、立とうとするとき、戦う手段として、テロしかないよなと思うことが度々あります。

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    1. 日本では、文筆家といえば無駄飯食いの代名詞です。
      二葉亭四迷は「文学は男子一生の仕事にあらず」と言いましたし、鴎外は、最後まで自分は国家官僚で、文学は余技に過ぎないと言っていました。
      その他、有名無名を問わず、自分たちの事を「たかが物書き風情」と言って卑下しています。実際にやっていることもその程度のことで命を賭ける気などさらさらないことは周知の通りです。
      しかし、たとえば中国は違います。2千年以上前から文が支配して来た国ですから、書かれた物が全てで、書かれない事は存在しないことになっている国で、文章を残すことは男子が命を賭けるに値する一生の仕事です。彼らにとって、言論の自由とは、書物を著す自由であって、書いたものが残りさえすれば命はどうなっても構わないと言うくらい真剣なことです。
      その覚悟からすれば、このフランス紙の風刺は最初から命がけだったはずで、いまさら騒ぐのは笑止千万、卑怯未練もいいところでしょう。
      銃弾によって封殺されるような風刺は、単なる誹謗であって言論の名に値しないと言うべきです。

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