ページ

ページビューの合計

2013年11月14日木曜日

日経"寸評"欄の差別社会化懸念・・何を今更

今日の日経朝刊”寸評”欄に、クリスチーヌ・トビラ仏法相(嘗ての仏植民地ギアナ生まれの黒人)が、10月下旬に仏西部の都市アンジェで、集まった子供達から「猿」扱いされてからかわれ、それに対して何処からも警告の声が上がらなかったことが憂慮すべき風潮として紹介されていた。

寸評子の懸念は、単に人種差別に限らず、あらゆる分野で "PC(Politically Correct)" にうんざりし始めた社会が、嘗てのような差別の正当化に向かいつつあるのではないかと言うところにあるらしい。 蓋し尤もな懸念ではある。

ただし、こと人種差別に関する限り、これは今に始まったことではなく、西欧諸国がアフリカから、南北アメリカ、中東、インド、東南アジア、東アジアの全域を支配し始めた14~15世紀以来、一貫して変わらない白人の深層心理であり、対社会主義戦争の陰に隠れていた本音が徐々に剥き出しになってきただけのことである。

戦後生まれの世代の大半は、無菌状態の温室(家主は米国)で育ってきたので、この程度のことで憂慮したりするかも知れないが、戦前・戦後、彼らが日本人(を含む非白人)をどう見てきたかを知っている私(達?)としては、何を今更と言うしかない。 どうも寸評子は、"PC(Politically Correct)" に代表される "閉ざされた言語空間" の中で、空想的理想社会を夢見て居たいらしい。

参考までに、京都大学会田雄二教授が、学徒動員で出陣し、ビルマで英軍の捕虜になった時の体験を書いた、「アーロン収容所」の一節を紹介しておく。

「はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らなければならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるときに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである」

「私はそういうイギリス兵の態度にはげしい抵抗を感じたが、兵隊の中には極度に反発を感じるものと、まったく平気なものとの二つがあったようである。もっとも私自身はそのうちあまり気にならなくなった。だがおそろしいことに、そのときはビルマ人やインド人と同じように、イギリス人はなにか別種の、特別の支配者であるような気分の支配する世界にとけこんでいたのである。そうなってから腹が立つのは、そういう気分になっている自分に気が付いたときだけだったように思われる」

1 件のコメント:

  1. 今の若い人たちは、大抵 "昔はそうだったかも知れないが、今は違う" と言うでしょう。 しかし、それは、サブカルチャーの世界しか知らないからです。アメリカを始め、殆んど全世界の政治的・軍事的支配層は、数世紀前から一貫して、覇権争奪と生存競争の駆け引きを継続しているのです。
    非白人の中では、幕末の日本人だけがその現実を直視し、敢然と戦う気概を持ち続けたのです。それが米国の逆鱗に触れ、抹殺されかけたのが大東亜戦争の本質でした。

    アニメやJPOPもいいでしょう。 しかし、それだけでは生き残れないことを知るべきです。芸能やスポーツは、いつの時代でも権力者が大衆を操縦するための道具として使われてきましたが、今の世界では、自国の大衆でなく、仮想敵国の大衆を操縦するために使われるようになりました。 それどころか、グローバリズムの名の下に、全世界の大衆を操縦し、使い捨てるために使われ始めています。ジョン・レノンやマイケル・ジャクソンは、操縦され続けることを拒否したために抹殺されたのだという人たちがいますが、有りそうなことです。
    http://www.youtube.com/watch?v=8t5awfxTbmM
    我々も衣の下に鎧を着ていなければ、ある日、突然、何処かの誰かの奴隷にされているかもしれません。そうされても気が付かないのを奴隷根性と言うのです。

    返信削除