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2013年3月12日火曜日

人は死んだらどうなるか(究極の難題)・・その1

死んだらどうなるか。
これは誰もが無関心ではないが、あえて考えることを避けている究極の難題である。
私は、それではいけないと思いながら、あれこれ考え続けてきたが、その都度、中途半端な思いつきの段階で中断し、後でまたゆっくり考えることにしようと自分自身に言い訳することを繰り返し、結局、元の木阿弥に終わってきた。
しかし、いよいよ死が射程距離に迫ってきたうえ、他に何もこれといった責任のある役割も持たない被介護老人に成り果てたので、これを機にせめて問題の整理だけでもしておくことにした。

まず、議論の取っ掛かりとして、人々の死生観の分類から始めることにしよう。
しかし、この分類と言う作業ほど難しい知的作業はこの世に存在しないと言っても過言ではない。
なぜなら、この分類枠組みをどう設定するかによって殆んど解の所在、或いは存否が決まってしまうからである。
しかも、世の中に流布されている分類基準の多くは、それ以前の誤謬、或いは意図的曲解に充ちている。 つまり、排他的全事象を網羅していないか、カテゴリーエラーの多くを見過ごしている。
とくに、社会科学の多くがそうであるし、自然科学といえども例外ではない。 さらに、宗教にいたっては分類作業そのものを背信行為として拒否している。 こんな重要な問題が数千年間もなおざりにされてきた所以である。 人は考える葦だと言った哲人が居たことは良く知られているが、都合の悪いことは考えない木偶の坊だと言った人も何処かに居たに違いない。

たとえば、
中断: 2013.3.12 いつもこの辺で止めてしまうのだが、今回は、自反而縮 雖千萬人 吾往矣!
再開: 2013.?.?

再開: 2015.1.15

3 件のコメント:

  1. 山岸紀美江2013年3月16日 11:01

    最近親しい知人が大動脈解離、StanfordBで、内科治療3週間入院し、現在自宅でリハビリ中です。この病気について調べるうち、あなたのブログに行き着き、すべて読ませていただき、今日に至りました。1939年10月8日生まれの私には、多くの記事がそうそうとうなずくばかりでした。匿名の発言については、メールアドレスを持った1990年頃から、同感の気持ちでした。手術の目的を、三井記念病院のHPでは、術後、健康で有意義な生活を取り戻すことと書いています。どれほど困難な手術に成功しても苦痛と不快感を残しては手術の価値はないと書いています。友人も、3週間の治療中もともとやせているのに、5キロも痩せて、退院しました。延命のみに価値を持つ医療に疑問を感じています。

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    1. 三井記念病院が其処まで言い切るのは余程の自信があるからかも知れませんが、勘ぐれば外科より内科の方を重視せざるを得ない言い訳をしているだけかも知れません。いずれにせよ、【死ななかった】=【助かった】=【良かった/成功した】 という生命原理主義は、結果として拷問の正当化に繋がりかねません。
      これらの悪弊の根本には死生観の混迷があると思ったことが、このテーマで投稿した理由です。あれから一年間、抛った侭でしたが、先日から少しずつ続きを書こうと言う気力が湧いてきましたので、FBのタイムラインで宣言して、その2 を公開したところです。

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  2. 究極の難題: 人は死ぬとどうなるか・・その2
    http://byoshonikki.blogspot.jp/2015/01/blog-post_15.html

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