死んだらどうなるか。
これは誰もが無関心ではないが、あえて考えることを避けている究極の難題である。
私は、それではいけないと思いながら、あれこれ考え続けてきたが、その都度、中途半端な思いつきの段階で中断し、後でまたゆっくり考えることにしようと自分自身に言い訳することを繰り返し、結局、元の木阿弥に終わってきた。
しかし、いよいよ死が射程距離に迫ってきたうえ、他に何もこれといった責任のある役割も持たない被介護老人に成り果てたので、これを機にせめて問題の整理だけでもしておくことにした。
まず、議論の取っ掛かりとして、人々の死生観の分類から始めることにしよう。
しかし、この分類と言う作業ほど難しい知的作業はこの世に存在しないと言っても過言ではない。
なぜなら、この分類枠組みをどう設定するかによって殆んど解の所在、或いは存否が決まってしまうからである。
しかも、世の中に流布されている分類基準の多くは、それ以前の誤謬、或いは意図的曲解に充ちている。 つまり、排他的全事象を網羅していないか、カテゴリーエラーの多くを見過ごしている。
とくに、社会科学の多くがそうであるし、自然科学といえども例外ではない。 さらに、宗教にいたっては分類作業そのものを背信行為として拒否している。 こんな重要な問題が数千年間もなおざりにされてきた所以である。 人は考える葦だと言った哲人が居たことは良く知られているが、都合の悪いことは考えない木偶の坊だと言った人も何処かに居たに違いない。
たとえば、
中断: 2013.3.12 いつもこの辺で止めてしまうのだが、今回は、自反而縮 雖千萬人 吾往矣!
再開: 2013.?.?
再開: 2015.1.15
