2010.02.28の日記:帰去来の辞(その2) で母校桐生高校の100年史を編纂すべく資料集めに苦労されている1年後輩の木本氏について触れたが、氏の手紙の中で早逝の畏友、阿部達雄君の名を見つけて懐かしさと無念さがこみ上げてきた。
彼とは、高校時代に付き合いはなかったが、彼が一度目の東大受験に失敗した際、たまたま彼の英語の個人講師だった宮嶋夫人(津田塾卒の才媛でご夫婦そろって父の患者さんだった)から、どこの予備校が良いか相談があり、すでに2浪が確定し、駿台に移ることを決めていた私と一緒なら安心だ(注: 何が安心だ・・・)というわけで一緒に駿台を受験して以来の付き合いだった。
試験の前日は、私の西荻の下宿先(足利出身の田村ご夫妻)に同宿し、一緒にお茶の水の試験場(電機大学だったと思う)まで出かけた日のことを思い出す。
四月の入学式には彼のご両親も見え、私の父も交えて記念写真を撮ったはずだが、どういうわけかどこにも見当たらない。
そのご、駒場でも本郷でも一度も出会った記憶がないが、桐生の金木屋で東大の先輩が召集した新入生歓迎会の席で一度会っているかも知れない。
卒業後は、数理経済学(大石泰彦ゼミ)をやってコンピュータ会社に入った私と、日本経済史(大塚久雄ゼミ)をやって鉄鋼メーカーに入り関西に赴任した彼(写真前列左から2人目)とは、行き会う機会がなかったが、年賀状をはじめ、赴任先が変わるごとに連絡し合っていた。
今でも彼の屈託のない元気な顔が目に浮かぶ。その彼が40歳そこそこで逝ってしまうとは・・・
クリスチャンだった夫人から届いた訃報には、「・・・夫達雄は・・・神の身元に召されました・・・」とあった。
その数年後に、もう一通の訃報を手にした私はただ呆然とするばかりだった。
そこには、「・・・母・・・は、・・・神の身元に召されました・・・」と印刷されていた。
クリスチャンでない私に、適切な言葉は浮かばないので、小林博士夫人の言葉で替えさせていただくことにする。
『・・・でも人生ってそういうものですよね・・・』
好漢、阿部達雄君、安らかに眠れ。
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