世の中に偉い人や特別の能力を持った人はいても、人間ではない全能の神などという荒唐無稽なものが存在するわけがない、というのが日本人の常識です。
こういう常識より西洋流の屁理屈のほうが知的で高級だと思い込む自称秀才は戦前からたくさんいて、とくに東京帝国大学の法学部や経済学部、文学部などには掃いて捨てるほどいました。
猫も杓子も東大を目指す戦後と違って、戦前は小学校で1番の秀才だからといって中学に進学したりせず家業を継ぐ人が沢山いましたから、そういう本当に頭のいい人たちは、東大あたりを出て屁理屈に拘る自称秀才のことを「秀才馬鹿」といって嘲笑っていました。
宗教に話を戻すと、日本人が神社や寺にお参りするのは、年に1度くらいは雑念を捨てて神妙な気持ちになるのも悪くないと思うからで、慣習だとか、ご利益目当てだとかいうのは、とってつけた理由で聞かれればそう答えるだけの話です。
普通の日本人が本当に大切だと思っているのは、誰かが作り出した神とか戒律とかいう形式的なことではなく、少しでも立派な人間になりたいという向上心とその実践です。しかし、多くの人はその実践を怠っているという自覚がありますから、せめて初詣と墓参りの時くらいは、心身を洗い流そうという気になるのです。
日本人にとって神様とは、自己修養・修練の先達(お手本にすべき偉い人)のことです。
外国人に「神道とは何か」と聞かれたら、「開祖もいなければ教義もない。
一言で言える日本人はいないし、いるとすれば偽物だ。
何でもいいから武道の道場に通って見るのが早道だ」と答えることをお勧めします。
「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」・・西行
日本人が、何か聞かれて「わからない」とか「一概には言えない」と言うとき、それは彼が無知だからではではなく、その問題の複雑さを知っているからです。
逆に滔々と結論めいたことを語る人は、「杓子定規」とか「利口馬鹿」とか言われて軽蔑されます。
日本人が、いわゆるディベートなるものに馴染めないのもその所為でしょう。 誰だって、利口馬鹿にはなりたくないですからね。
ついでに言えば韓国人はその正反対です。
