あえて断言します・・典型的な詭弁です。
憲法が国家権力の暴走に対する唯一の歯止めだと言うところを強調する一方、外国権力の暴走(外圧や侵略)に対する歯止めとしては無力だと言うことを(おそらくは意識的に)伏せています。
こういうのを詭弁と言います。
詭弁の本質は前提条件(&定義)の恣意的な歪曲にあります。
前提の欺瞞を精緻な論理的一貫性で糊塗するのが詭弁の本質であり、専門馬鹿や似非学者の常套手段乃至通弊です。
私たち常識人が、「理屈はそうなるかも知れないが何処かおかしい」と感じる似非学者の屁理屈に反論できず悔しい思いをするときは、論理の欠陥を捜すのでなく、前提条件の欠陥や欺瞞を探すべきです。
詭弁の例には事欠きません。
①俊足のアキレスは、永久に鈍足の亀に追いつけない。
②飛んでいる矢は常に静止している。
③日本は法治国家であり、憲法は武力による国際紛争の解決を禁じている。故に外国からの武力攻撃に対して武力反撃は許されない。
いずれも事実がそうでないことは明白なのに理屈はそうなるので悔しい思いをします。
すべて前提条件(&定義)に嘘がありますが各位で見つけていただきたいと思います」
2015年9月19日土曜日
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小林教授を含めて全ての憲法学者、政治家、評論家その他の議論の中に、そもそも憲法とは何かの議論はあっても、①憲法と言う呼び方が妥当か、②憲法(仮称)は必要かという大前提を論ずる人が見当たらないのが不思議です。高々2~3百年前に初めて米国で発明されたばかりの Constitution という法律もどきの人工的国家定義を法律扱いして憲法と訳し続ける根拠すら疑わしいと思います。
返信削除米国の大学で学んだ小林教授の"憲法"観は良くも悪くも普遍性に最高価値を置き、民族固有の価値観は極力排除すべきだと言うもののようですが、世界中でそれを信奉している国は米国を含めて一国もありません。
その意味では作今評判の悪いグローバリズムに通じる無色透明の世界観で、私の趣味には程遠いものと言わざるを得ません。
そもそも社会制度における普遍的価値という言葉も意味不明です。
返信削除それを疑わない人達は欧米列強によるプロパガンダを鵜呑みにしているに過ぎません。私たちは1千年来私たちの社会を支えてきた固有の価値観を共有しています。もしグローバルな普遍的価値を論ずるならこれら各民族が拠り所としている固有の価値観を比較検討して共通する要素を抽出する必要があります。しかし、それは学者の研究テーマとしては意味があるかもしれませんが国民を統合する精神的紐帯とはなり得ないでしょう。