以前にも、2011年11月8日に、日経春秋欄の石原莞爾論と題して、いわゆるメディアリテラシーを論じたことがある。要するに、新聞・テレビ等における報道や記事の文面からは直接読み取れない意図を読むことである。
前回の投稿は、TPPに事寄せて、黒船論を引き合いに出し、事のついでに、東京裁判の証人として欧米列強の植民地支配を痛烈に批判した石原莞爾の人格を貶めようとする底意を指摘したものであるが、今回は、五輪招致演説および水俣条約会議に寄せた挨拶文での安倍首相の言葉尻を捉えて、揚げ足取りではないと言いながら、その実、揚げ足取りとしか言いようのない人格批判に終始していることを指摘するものである。
まずは前回に習って、2013年10月11日(金)日経朝刊 春秋欄 の全文を転載すると・・・
(10.11・・疲れたので休憩)
(10.12・・再開)
「言葉尻だけ捉えるのはつまらないはなしです」。政治家の言葉をやり玉にあげるマスコミに、6年前に死去した作家の城山三郎がくぎを刺した。ただ「その人の本質を表すような言葉が出たときには、それはもう容赦なく批判すべきですね」(「『気骨』について」)
▼これから書く話は城山さんもわかってくれるだろう。安倍首相が水俣条約会議に寄せたメッセージで「水銀による被害と、その克服を経た我々だからこそ、世界から水銀の被害をなくすため先頭に立って力を尽くす責任がある」と述べた。これに水銀病患者の側から「被害は克服されていない」と反発が出ているという。
▼「原発の汚染水はコントロールされている」という五輪招致演説に重なる何ものかを感じとった人も多いのではないか。国際舞台で、外向けに、日本の実力を誇って胸を張る。見えを切る姿は頼もしくさえあるのだが、国内で現にいま苦しんでいる人々へのまなざしが感じられない。考えてみればどちらも同じ構図である。
▼五輪を東京で開く。世界を水銀の汚染、あらたな水俣病から守るために指導力を発揮する。どちらも大義ある話しだ。首相が国を引っ張るのも当然だろう。しかし、その公式発言に「コントロール」や「克服」が紛れ込む。二語に共通する何ものかは「言葉尻」なのか。いやどうしても「本質」と思えてならない。
以上が、2013年10月11日(金)日経朝刊 春秋欄の全文である。
この筆者も、さすがに安倍首相の論旨に隙を見つけることが出来なかったらしい。そこで、例によって論点をすりかえ、安倍首相の人格に問題があるかのような揚げ足取りに終始せざるを得なかったようだ。
そもそも、上記の挨拶はもともと、諸外国に対して我国が積極的に努力してきたこと、これからも同様に全力を尽くして行こうとしていることを宣言したものであり、現に水俣病と格闘している研究者や破綻した福島第一原発の暴発を回避するために命をかけている人々への信頼を表明したものである。
水俣病患者の訴えが100%満たされ、福島第一原発の危険が100%克服されるなどということが有り得ないことは、世界中の識者の常識である。この筆者は、安倍首相が、命がけで使命を果たしている関係者の努力の成果が評価に値しないとでもいえば納得するのだろうか。
おそらくそうなったら、我国の信用は地に落ち、政府は転覆し、若者は落胆、絶望するだろう。
もっとも、それがこの筆者の真に望んでいることだとすれば、また、何をか謂わんやであるが。
最後に一言、福島第一原発の故吉田所長は、事故発生直後、冷却システムが致命傷を負い、回復不能であることを知った時から、命を捨てる覚悟を決め、生死を共にしてくれる部下を選んでいたという。と同時に政府や本社からなんと言ってこようと、海水の注入を止めるなと指示したそうだ。それは、もしそうしなかったら、チェルノブイリの数百倍、広島型原爆数百発に相当するエネルギーが解放され、もはや東北は愚か、東日本全域の放射能汚染は避けられず、無人の野に帰しかねないことを知っていたからだ。(月間「WILL」2013年8?月号インタビュー記事)
こういう英雄的な方々の献身によって、福島第一原発の廃炉は辛うじてコントロールされてきたし、今もなお、創意工夫と試行錯誤を繰りかえしながらコントロールされ続けているのだ。
世界中の専門家が感嘆と危惧の目を持ってその命がけの綱渡りを見守っている中で、安全地帯からそれに水を差すこの筆者の真意を疑わざるを得ない。
2013年10月11日金曜日
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