数ヶ月前から日経朝刊に浅田次郎が幕末の江戸城を舞台に謎めいた小説を連載している。
無血開城して官軍に引渡しが済んだはずの江戸城に一人の謎めいた、しかし端倪すべからざる旗本番士(言わば近衛騎士)が居残って周囲の誰もが腫れ物扱いしているという筋書きである。
勝(海舟)や西郷(南洲)の問いかけにもだんまりを決め込んでいると言うから勿論只者ではない。 読者は私を含めて固唾を呑んで翌日の展開を待っている・・・というより自分の知識と想像力を動員してあれこれ勝手なシナリオを描いているといったところだろう。
この間に、その背景について私の脳裡を過ぎったのは以下の二つの想像である。
ひとつは、誰もが考えたであろう欧米列強の介入と植民地化の脅威であり、これは恐らく勝や西郷だけでなく、幕府、官軍を問わず主要リーダー達が共有していたはずである。 私もいつそれが言及されるか心待ちにしていたが、やっと今日(1月24日)になって尾張義勝の口から語られた。 番士も半分は納得したようだが、未だ何かすっきりしない態度に見える・・・というところで後は明日のお楽しみとお預けを食わされている。 明日からどういう話になるか楽しみだ。
もうひとつは、榎本武揚が幕府海軍を率いて函館五稜郭に立てこもったのは、海舟の意を受けて、将来日清朝連合艦隊の核となるであろう幕府海軍を温存すると同時に列強の蝦夷侵攻を牽制・阻止するためだったのではないかと言うことだ。 今年の年賀状でも何人かの関係者宛には付記したので、さすが先見の明と褒められるか、知ったかぶりの無知を笑われるか、はたして今後どうなるか判らないが、私にとっては、以前から殆んど確信していた事実である。
さもなければ、ライデン大学に留学し、数ヶ国語に通じていたほどの開明派の彼が伊達や酔狂で、国内分裂を企図するはずはないし、あっさり、降伏して明治政府の要人として農商務大臣や逓信大臣として明治国家のインフラ建設に起用されたはずもない。 はたして、その意図があったのか結果としてそうなっただけなのかは、近代史の専門家の間では常識に類することかも知れないが、私自身は寡聞にしてそのような論説にお目にかかったことがない。 明日からの筋書きのなかで浅田氏が彼についてどんな言及をされるか、これももうひとつの楽しみである。
因みに榎本武揚は、私が勤務していた東京情報大学の設立母体、学校法人東京農業大学の創設者であると共に、妻の曽祖父山本榮四郎らが、足尾鉱毒被害の地元農民代表として窮状を訴えた相手でもあり、私には特別の思い入れがある。
2013年1月24日木曜日
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