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2011年10月13日木曜日

ノーベル賞学者の言うUSとEUの違い

今日の日経夕刊のコラムで、ニューヨークから西村博之記者が、今年のノーベル経済学賞受賞者に決まったサージェント・米ニューヨーク大教授のインタビューでの答えを報告していた。

要するに、US も当初、13州が皆破産状態だったが、後に初代大統領となるジョージ・ワシントンやその参謀で「強い中央政府」の支持者だったアレクサンダー・ハミルトン等が、連邦政府に各州の債務を移すとともに、各州の関税徴収権を集中させたことで解決の方向に向かった。今の EU にはその権限がない。全ては政治的決断一つにかかっているというものである。

では、今の日本はどうか。 それが私の言いたいことである。

US は、 US としての国益を決定する機関(連邦政府)を作ることに成功したが、EU は成功していない上、その意思すら当てにならない。

日本の場合、憲法はもともと不出来な上、その正当性すら怪しいところへ持ってきて、最近では国益概念の一致どころか、概念そのものの存在すら消されつつある。
要するに、日本が国家でないのは、EUが国家でないのと同じだと言うことだ。

国家不要論者は、その何処が悪いと言いそうだが、独立国を持たない民族の苦難の歴史を知らない極楽トンボや資産を外国に隠しておけば良いと言う金持ちエゴイスト(売国奴という)と議論しても無駄だから、この辺でやめておく。 だいいち、外国と言う "国家" が無ければそれも出来ないことくらい判らないとは言わせない!

ついでに言うが、リンカーン大統領が、未だに、米国で一番尊敬されているのは、奴隷解放より合衆国の分裂を回避することの方が遥かに重要だと言うことを知っており、かつ、それを明言したからだ。
くどいようだが、彼は国を救ったから尊敬されているのであり、決して国民の一部に過ぎない黒人奴隷を解放したから尊敬されているのではない。

2011年10月8日土曜日

渋沢栄一の "「論語と算盤」 再評価" に思う。

アダム・スミスは、生涯に2冊の大著を残している。1763年の最初の著書『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments)と 1776年の通称『国富論』(The Wealth of Nations)である。前者が後者の大前提になっているという説を何処かで読んだ記憶がある。 多分、何年か前の日経 "経済教室" 欄だったと思う。そうだとすれば、前者を挙げずして後者を源流とする "アングロ・サクソン型資本主義" のみを槍玉に挙げるのは、片手落ちであり、"経済学の祖" に対して礼を失することになる。

今朝の日経 "文化" 欄で、編集委員 河野孝氏が、「論語と算盤」に関して、当時ナポレオン3世統治下でのサン=シモン主義政策の影響を指摘した社会政策学者の新説を紹介しているが、時代背景から考えれば肯けないことはない。 しかし、なぜ、その前に 「道徳感情論」に触れないのか、徒らに、アングロ・サクソン悪玉論を唱えていれば良いというものではあるまい。 それとも私の考えすぎか?

2011年10月5日水曜日

政治家の "問題発言" 国際比較

多少、文言に不正確な所があるかもしれないが、趣旨に大きな間違いはないと思う。

① ワシントン大統領
ナバホインディアンの抵抗に業を煮やし、「・・・鎮圧ではなく絶滅だ。 彼らを皆殺しにせよ・・・」

② リンカーン大統領
南部の黒人奴隷解放によって200万人の黒人を北軍の味方に出来るとして、「・・・重要なのは合衆国の分裂を阻止することであり、奴隷解放はその一手段に過ぎない。 もし、その為に奴隷解放が必要なら解放する、しかし。 もし、解放しないことが必要なら解放しない・・・」

③ ヒットラー総統
世界に冠たるドイツ民族にとって、ユダヤ人の存在が障害になっているとして、「・・・最終的解決(ユダヤ民族の絶滅)が不可欠である・・・」

④ 毛沢東主席
米ソの原爆など脅威ではないとして、「原爆で中国の半分の3億人が死んでも、残り3億人が生き残り、何年か経てば6億人となり、もっと多くなる・・・」

⑤ もうひとつおまけに、フランス国歌
 “・・・Qu'un sang impur abreuve nos sillons ! ・・・”
(・・・彼らの穢れた血で我らの田畑を潤すために!・・・)

等々、枚挙に暇がない。 それと比べれば昨今の日本の政治家の "問題発言" など取るに足りない。


真の問題は、何が誰にとって何う問題なのかであり、所詮、民主的に解決できるような生易しい話ではない。 確かなことは、未だ人類の歴史は、自らの帰属集団の生き残り競争、「勝てば官軍」、「弱肉強食」 の世界にとどまっているということだ。

しかし、生態系は、(残念ながら?)共食いも含めて全てそうであり、生態系を守ると言うことは、人類も含めて生存競争を是認すると言うことである。 その何処がいけないのか、他により良い手段があるのか、きちんと答えられる人がいたら教えて欲しい。 ただし、人類だけは例外だとする議論には応じるつもりはないことを断っておく。

2011年9月26日月曜日

合ハイ写真が朝日新聞 "サザエさんをさがして" に掲載される。


私のホームページ 『一期一会・・・Our Eternal Moment』 の 『追憶十話・・・その3』 に載せたお茶大との合ハイの集合写真が、朝日新聞 "サザエさんをさがして" の担当記者の目に留まり、2010年9月25日(日)の朝日朝刊に掲載された。

以下は、私のもう一つのブログ 『50年前の今日の日記・・・60年代駒場の一期一会』 2011年8月7日の記述 『1961.6.26(月) 近くのH嬢より遠くのお茶大生? 』 からの引用である。


・・・4限は黒川らと共にサボり、美作、武藤と4人でお茶大の女の子達との相談に出かけた。 渋谷でコーヒーを飲みながら 1時間ほど駄弁った後、新宿中央口へ出かけた。 30分ほど待たされた後一緒になり、またコーヒーやソーダを飲みながら話をした。

結局、もっと資料を集めなくてはと、鈴木、長沼の両嬢&黒川、武藤の4人と共に三越前の長野県出張所まで行ったが、閉店の 6時にわずかに遅れて目的を達せず、武藤と別れて 4人で東京駅まで歩き、そこの総合案内所で漸く調べることが出来た。

後は鈴木さんから美作のほうへ連絡してコースを選定して貰うことにして別れた。 鈴木さんは毎日2時間もかかる茅ヶ崎から通っているとのことであった。

東京駅へ行く途中、長沼さんが桐生に親戚がいると言ったことから野球の話までとび出し、全く世の中は狭いものだと思った。


(注1) お茶大との合ハイの記事は、昨年9月25日の朝日朝刊 "サザエさんをさがして" に掲載された。 ここに挙げた4人と私の顔も映っているが、どれが誰かは言うわけにいかない・・・?

取材の依頼メールが来たのは8月末だったが、体調が悪く、2週間ほど経ってから気がついたときは原稿締め切り直前だったため電話取材で済ませた。 その時はまだ、自分が幹事役の一人だったことも忘れていたので、不得要領の結果に終わっているが、記者は、この写真に惚れ込んで是非載せたいと言うので、私が全責任を負うということで承諾した。

あれから間もなく 1年になるが、誰からも文句は来ていない。 多分、だれも読んでいないからだろうと思っていたら、10年前に前立腺癌で全摘手術を受けたあとずっと経過観察を受けている執刀医から、"あれは関口さんですか" と言われてびっくりした。 まだまだ ネットより新聞や TV の影響力の方が圧倒的に大きいことを痛感した。 facebook 時代になってこれが変わるかどうか、予断は出来ない。

(注2) 鈴木さんから 2時間かけて通学していると聞いて驚嘆したが、後年、私自身が選りによって茅ヶ崎に住み、3時間かけて千葉市にある東京情報大学まで通勤することになるとは・・・ 隔世の感ありと言うしかない。

(注3) 桐生と野球の話が出たのは、昭和30年(1955年)の春の甲子園で浪商との決勝戦まで勝ち進み、2対2で延長戦に縺れ込んだ末、敬遠で出塁した浪商坂崎の生還を許して3対2で惜敗したばかりだったからだ。
当時、桐生高校への入学が決まっていた私達は、連日登校し、講堂で NHK 取材班の報道に興奮していた。 準優勝旗を持って桐生駅頭に立った今泉-田辺バッテリー以下、TVで すでに顔を知っていた先輩達を尊敬の目で見守ったものだ。 入学後、修学旅行の日程を急遽変更して甲子園にかけつけ、最後まで応援して帰ってきた 3年生 300人余との対面式では、私が新入生を代表して挨拶することになった。
"・・・私達は、桐生と甲子園に遠く離れていましたが、共に桐高ナインを応援することで、同じ桐高生としての誇りを感じていました・・・"

2011年9月11日日曜日

揚げ足取りが出世の条件?

相変わらず、政治家の "問題発言騒動" が続いている。 私から見れば発言自体が問題なのではなく、片言隻句をとらえて政府を攻撃し、徒らに政治を麻痺させることに狂奔するマスコミ人種の方が遥かに無責任である。

今回の経産相辞任劇で言えば、彼の大臣としての無能さを論ずるのでなく、まだ就任したばかりで何も判らないはずなのに、やれ"次元が低い" の "福島県民の気持ちを逆撫でした" のと "人格" を問題視して騒ぎ立てる人々はよほど有能で高潔な人格の持ち主ばかりなのだろう。 私はクリスチャンではないので表現に多少の誤りがあるかもしれないが、"汝らのうち罪なき者、石もてこの女を打て" とキリストが言ったとかいう故事を思い出す。

それほど言うなら自分が立候補すればよい。 しかし、こうした安全地帯からの揚げ足取りで、一人でも多くの閣僚を辞めさせることが業界における出世の条件だとすれば、まさに人類史上最悪、最卑劣、最無責任な職業集団だと言うしかない。 もし彼らの背後に黒幕がいるとしたら真の悪人は彼(または彼ら)だと言うことになる。

世間を徒らに騒がせることによって、政治を麻痺させ、実際に、当の福島県民の気持ちを踏みにじっているのは、いったい何処の誰だろう。 "福島県民の気持ちを逆撫でした" といって経産相を非難する彼らに良識ある福島県民の本当の気持ちが分かっているのだろうか。

2011年8月14日日曜日

平成の田中正造: 東大児玉教授

Yutube で 2011.7/27 衆議院厚生労働委員会における東大アイソトープ総合センター長児玉龍彦氏の陳述を見た。 自ら体を張って行動している方の真剣さがひしひしと伝わってくる姿勢に感銘を受けた。

看過するに忍びず、以下の投稿をさせていただいた。

"120年前の帝国議会における田中正造の獅子吼を思わせる。 

この方の発言の揚げ足取りをする正体不明の投稿が後を絶たないが、こうまでしなければ動かない役人と議員の不勉強と優柔不断に我慢ならなくなったのだろうと拝察する。


ただし、彼らが必ずしも悪意を持って隠しているとは限らない。 とくに良心的政治家の場合、単に判断しかねているだけのことが多い。
級友の江田五月などは誠実そのものだが、私が前立腺癌手術の際、米国では当たり前になっている放射線丸打ち込みが、日本では放射性物質管理法の制約(放射性物質の施設外持ち出しの禁止!)で適用できないことを、当の科学技術庁長官だった彼自身、同窓会での私の体験談ではじめて知り、言ってくれれば如何にでも出来たのにと残念がったものだ。 数年後法律が改正されて可能になったが、2年後の天皇陛下の手術までには間に合わなかった。

要するに政府を非難するのも良いが、こうした難しい問題を知悉し、的確な判断を下し、断固命令するのは不可能に近い。 とくに何でも ’民主的' の名の下に陣頭指揮を執らせようとしない世論(とくにマスコミ)にも責任の一端がある。"


多いサイトでは、20から30万アクセスに達しているそうだが、どの投稿の発信人もすべて匿名で何処の馬の骨ともわからない烏合の衆ばかりであった。 私に言わせれば、こんな投稿の数が何百万に達しようが、住所氏名のはっきりしている選挙民の一票にも値しない。 政府がこのような安全地帯からの無責任な投稿に踊らされるとしたら、そのほうがよっぽど危険だと言うべきだ。 無責任だと言う点ではマスコミと一緒だが、素性がわからないだけにどんな悪意が潜んでいるか知れたものではない。
ネット信奉者も、もっと正々堂々と発言するようにならないと自ら墓穴を掘りかねないと知るべきだ。

参考までに、1900年(明治33年)2月13日、足尾銅山鉱毒被害の実態を中央政府に訴えるべく、群馬県邑楽郡渡良瀬村字下早川田の雲竜時(母方の菩提寺)に結集した地元農民の若手有志たちが、東京へ向かって押し出し(今で言うデモ行進)の途時、意気高らかに歌った 『鉱毒悲歌(国土の興亡)』 を引用しておく。
冒頭に中心人物3名の名が挙げられているが、そのうちの一人、山本英四郎(正しくは、山本栄四郎)とあるのは妻の曽祖父である。

2011年8月6日土曜日

関東平野にクマ蝉が出現!

私は大の蝉好きで、5歳の頃から毎朝、薄暗いうちに起き出して庭の木の一本々々を上から下まで舐めるように点検したのち、夫々の根元の穴の中から這い出してくる "穴蝉" がいないか見て回るのが日課だった。
その私でさえ、生家のあった群馬県桐生市でも、学生時代をすごした東京でも、更に現在住んでいる茅ヶ崎市郊外でも、5種類の蝉の声しか耳にしたことはなかった。 ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシの5種類である。

ところが、今朝、いつものように散歩に出かけたところ(と言ってもこの暑さでは100mほど先の小公園までがやっとだが)聞きなれない "ぎしぎし" という啼声がする。 これはことによると話に聞くクマゼミに違いないと思い、家に帰ってから Wikipedia で調べたらやはりそうだった。 元々西日本に多いらしいが関東平野で耳にするようになったのはここ数年のことだと言う。 とくに茅ヶ崎市での近年の大発生は夙に注目されていたらしい。

さっそく温暖化と結びつけて論ずる向きもあるが、場所によっては鹿児島県にもいないところもあれば、北海道でも全くいないわけでもないそうだ。 樹木の移植と共に幼虫がやって来たり、他の種族との棲み分けや小鳥の餌になりやすい環境とかさまざまな要因が関係するらしい。 まさに生態系は複雑系の代表である。

その意味では、ことによると人体と放射能の関係なども悪いことばかりとは限らないかも知れない。 樹木だって間伐が必要だと言うことを考えれば、どっちみち増えすぎたホモサピエンスの間引きにはなるし、数百年の間には、放射能に強い人種に改良が進んでいるかも知れないではないか。

これは当事者にとっては耐え難いことかも知れないが、地球上の生物相のレベルで見れば厳然たる事実であることは否定できない。 要するに問題なのは脱原子力の是非(そんなこと誰にも分かるわけがない!)ではなく、結果に責任を負う覚悟のある人間が何処にもいなくなってしまったと言う道義的堕落にあるというべきだ。

それにつけても、卑怯なのは、いわゆる評論家やマスコミ人種である。 若し自然淘汰が避けられないとすれば、真っ先に淘汰の対象となるべきだと思うが、目の前の現実がその逆に見えるから腹立たしい。 しかし、それもマクロの時空間で見ればきっとなんと言うこともないのだろう。