私の会社員時代の上司は、大連で出撃寸前に終戦となり、上官命令で帰国した特攻隊生き残りの山本卓眞少尉(新入社員時代の直属課長、後に名誉会長、靖国神社崇敬者総代)、実兄はレイテで戦死した勤皇隊隊長山本卓美中尉です。
二人とも陸軍航空士官学校出身の職業軍人でした。
その山本課長の持論は、敗戦の最大の理由は、物量でも精神力でもなく技術力の圧倒的差だということでした。帰国後、東大第2工学部に入ったのも、『第2次日米戦は技術戦争なり』との確信からでした。
文系新入社員の技術部配属は、私の前には例がなく、初日に言われたのは、『君にはアプリケーション・デベロップメントをやって貰う。いずれ君たちの時代が来る』でしたが、私には何のことかさっぱり解らず、電子工学の応用研究をやるのかと思って、丸善でエレクトロニクスの教科書を買ってきたのを思い出します。現在のITC時代を50年前に見通していた先見の明に今更ながら敬服します。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sekiguchi_prof/ryakureki/keiyu99.6.html
その山本課長が、自分も後を追うつもりで尊敬していた兄卓美中尉のことを、ある講演会の後の質疑応答で言葉少なに語った中で、兄が特攻出撃が決定してから死の直前まで遺言のつもりで書き残した日記に触れています。
http://melma.com/backnumber_256_3405449/
その冒頭にあるのは、揺るぎない使命感と限りない母への思いと最後の何年かを過ごした福島県原町への惜別の言葉です。
http://from76.exblog.jp/12846661/
決して、靖国神社ではなく、まして天皇や首相に足を運んで貰うことなどではありません。
戦後、『靖国で会おう』が合言葉だったと見てきたことのように言う人がいますが、それは新聞が流行らせた単なるキャッチフレーズで、実際に死んでいった隊員たちが、最後の瞬間に思い浮かべたことがあるとすれば、それは、家族や友人、故郷の思い出だったはずです。
少なくとも靖国神社より先祖の墓のほうが優先順位が高かったに違いありません。
もし、戦場で 『靖国で会おう』 が合言葉として広く使われたとすれば、それは、「ハチ公前で会おう」、「アキバで会おう」、「尾瀬で会おう」・・というときと同じ、分かりやすい待ち合わせ場所だったからでしょう。決してそこへ行けば、天皇や首相が来てくれると思ったからではないはずです。
山本さんも晩年には、
偕行社会長(旧陸軍および自衛隊将校の親睦会)
靖国神社崇敬者総代、
靖国神社崇敬奉賛会副会長
歴史教科書是正を求める会会長
終戦60年を考える会会長
に祭り上げられていましたから、真意か立場上かは知りませんが、首相の靖国参拝は当然だとする発言に終始していたようです。
しかし、それも中韓に言われたから止めるとか、反日分子が誰は行くべきではないとか干渉するのは怪しからんということで、英霊が待っているからだなどと考えていたからではないと思います。
何しろ、多くの英霊にとって、あそこは戦友との待ち合わせ場所であって首相やお偉方との待ち合わせの約束などしていないのですから。
それ以前に、殆どの兵士は、地方ごとの連隊に所属していましたから、例えば高崎連隊の兵士であれば、間違いなく 『高崎で会おう』 が合言葉だったはずです。
それに元々遺骨は、あるとすれば靖国や千鳥ヶ淵にではなく、故郷の寺にあるのですから。
どうしても首相の参拝を要求するのであれば、その前に天皇陛下の親拝を要求すべきだし、その際も、英霊をダシにするのでなく、国家としての尊厳を前面に出すべきです。
それが国際的に賢明でないと考えるなら靖国に拘るのは止めるべきでしょう。
もっと権威のある荘厳な戦没者慰霊碑を建てて、全戦没者の名前を刻めばよいのです。
その際、戦犯も含めるかどうかは、ドイツのビットブルク墓地に準ずるとか、後で何処かの国からイチャモンが付かないよう慎重にすべきでしょう。
http://byoshonikki.blogspot.jp/2014/08/blog-post_26.html
2014年9月15日月曜日
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国家の尊厳や英霊の顕彰と、戦没者の慰霊は次元の異なる話だと思います。どちらも大切ですが、靖国問題がこじれるのは政治家も愛国国民も政治的思惑でそれをごちゃ混ぜにしているからではないでしょうか。
返信削除乃木大将は全国津々浦々の神社を巡る鎮魂の旅を続けました。
後に、山本卓美中尉が両親宛ての最後の手紙で、自分が死んだら靖国神社に祀って欲しいと言い残していたことを知り、当時の将兵、特に将校たちにとって靖国神社は特別の意味を持っていたことを知った。
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