Yutube で 2011.7/27 衆議院厚生労働委員会における東大アイソトープ総合センター長児玉龍彦氏の陳述を見た。 自ら体を張って行動している方の真剣さがひしひしと伝わってくる姿勢に感銘を受けた。
看過するに忍びず、以下の投稿をさせていただいた。
"120年前の帝国議会における田中正造の獅子吼を思わせる。
この方の発言の揚げ足取りをする正体不明の投稿が後を絶たないが、こうまでしなければ動かない役人と議員の不勉強と優柔不断に我慢ならなくなったのだろうと拝察する。
ただし、彼らが必ずしも悪意を持って隠しているとは限らない。 とくに良心的政治家の場合、単に判断しかねているだけのことが多い。
級友の江田五月などは誠実そのものだが、私が前立腺癌手術の際、米国では当たり前になっている放射線丸打ち込みが、日本では放射性物質管理法の制約(放射性物質の施設外持ち出しの禁止!)で適用できないことを、当の科学技術庁長官だった彼自身、同窓会での私の体験談ではじめて知り、言ってくれれば如何にでも出来たのにと残念がったものだ。 数年後法律が改正されて可能になったが、2年後の天皇陛下の手術までには間に合わなかった。
要するに政府を非難するのも良いが、こうした難しい問題を知悉し、的確な判断を下し、断固命令するのは不可能に近い。 とくに何でも ’民主的' の名の下に陣頭指揮を執らせようとしない世論(とくにマスコミ)にも責任の一端がある。"
多いサイトでは、20から30万アクセスに達しているそうだが、どの投稿の発信人もすべて匿名で何処の馬の骨ともわからない烏合の衆ばかりであった。 私に言わせれば、こんな投稿の数が何百万に達しようが、住所氏名のはっきりしている選挙民の一票にも値しない。 政府がこのような安全地帯からの無責任な投稿に踊らされるとしたら、そのほうがよっぽど危険だと言うべきだ。 無責任だと言う点ではマスコミと一緒だが、素性がわからないだけにどんな悪意が潜んでいるか知れたものではない。
ネット信奉者も、もっと正々堂々と発言するようにならないと自ら墓穴を掘りかねないと知るべきだ。
参考までに、1900年(明治33年)2月13日、足尾銅山鉱毒被害の実態を中央政府に訴えるべく、群馬県邑楽郡渡良瀬村字下早川田の雲竜時(母方の菩提寺)に結集した地元農民の若手有志たちが、東京へ向かって押し出し(今で言うデモ行進)の途時、意気高らかに歌った 『鉱毒悲歌(国土の興亡)』 を引用しておく。
冒頭に中心人物3名の名が挙げられているが、そのうちの一人、山本英四郎(正しくは、山本栄四郎)とあるのは妻の曽祖父である。
2011年8月14日日曜日
2011年8月6日土曜日
関東平野にクマ蝉が出現!
私は大の蝉好きで、5歳の頃から毎朝、薄暗いうちに起き出して庭の木の一本々々を上から下まで舐めるように点検したのち、夫々の根元の穴の中から這い出してくる "穴蝉" がいないか見て回るのが日課だった。
その私でさえ、生家のあった群馬県桐生市でも、学生時代をすごした東京でも、更に現在住んでいる茅ヶ崎市郊外でも、5種類の蝉の声しか耳にしたことはなかった。 ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシの5種類である。
ところが、今朝、いつものように散歩に出かけたところ(と言ってもこの暑さでは100mほど先の小公園までがやっとだが)聞きなれない "ぎしぎし" という啼声がする。 これはことによると話に聞くクマゼミに違いないと思い、家に帰ってから Wikipedia で調べたらやはりそうだった。 元々西日本に多いらしいが関東平野で耳にするようになったのはここ数年のことだと言う。 とくに茅ヶ崎市での近年の大発生は夙に注目されていたらしい。
さっそく温暖化と結びつけて論ずる向きもあるが、場所によっては鹿児島県にもいないところもあれば、北海道でも全くいないわけでもないそうだ。 樹木の移植と共に幼虫がやって来たり、他の種族との棲み分けや小鳥の餌になりやすい環境とかさまざまな要因が関係するらしい。 まさに生態系は複雑系の代表である。
その意味では、ことによると人体と放射能の関係なども悪いことばかりとは限らないかも知れない。 樹木だって間伐が必要だと言うことを考えれば、どっちみち増えすぎたホモサピエンスの間引きにはなるし、数百年の間には、放射能に強い人種に改良が進んでいるかも知れないではないか。
これは当事者にとっては耐え難いことかも知れないが、地球上の生物相のレベルで見れば厳然たる事実であることは否定できない。 要するに問題なのは脱原子力の是非(そんなこと誰にも分かるわけがない!)ではなく、結果に責任を負う覚悟のある人間が何処にもいなくなってしまったと言う道義的堕落にあるというべきだ。
それにつけても、卑怯なのは、いわゆる評論家やマスコミ人種である。 若し自然淘汰が避けられないとすれば、真っ先に淘汰の対象となるべきだと思うが、目の前の現実がその逆に見えるから腹立たしい。 しかし、それもマクロの時空間で見ればきっとなんと言うこともないのだろう。
その私でさえ、生家のあった群馬県桐生市でも、学生時代をすごした東京でも、更に現在住んでいる茅ヶ崎市郊外でも、5種類の蝉の声しか耳にしたことはなかった。 ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシの5種類である。
ところが、今朝、いつものように散歩に出かけたところ(と言ってもこの暑さでは100mほど先の小公園までがやっとだが)聞きなれない "ぎしぎし" という啼声がする。 これはことによると話に聞くクマゼミに違いないと思い、家に帰ってから Wikipedia で調べたらやはりそうだった。 元々西日本に多いらしいが関東平野で耳にするようになったのはここ数年のことだと言う。 とくに茅ヶ崎市での近年の大発生は夙に注目されていたらしい。
さっそく温暖化と結びつけて論ずる向きもあるが、場所によっては鹿児島県にもいないところもあれば、北海道でも全くいないわけでもないそうだ。 樹木の移植と共に幼虫がやって来たり、他の種族との棲み分けや小鳥の餌になりやすい環境とかさまざまな要因が関係するらしい。 まさに生態系は複雑系の代表である。
その意味では、ことによると人体と放射能の関係なども悪いことばかりとは限らないかも知れない。 樹木だって間伐が必要だと言うことを考えれば、どっちみち増えすぎたホモサピエンスの間引きにはなるし、数百年の間には、放射能に強い人種に改良が進んでいるかも知れないではないか。
これは当事者にとっては耐え難いことかも知れないが、地球上の生物相のレベルで見れば厳然たる事実であることは否定できない。 要するに問題なのは脱原子力の是非(そんなこと誰にも分かるわけがない!)ではなく、結果に責任を負う覚悟のある人間が何処にもいなくなってしまったと言う道義的堕落にあるというべきだ。
それにつけても、卑怯なのは、いわゆる評論家やマスコミ人種である。 若し自然淘汰が避けられないとすれば、真っ先に淘汰の対象となるべきだと思うが、目の前の現実がその逆に見えるから腹立たしい。 しかし、それもマクロの時空間で見ればきっとなんと言うこともないのだろう。
2011年8月5日金曜日
兼好法師なら分かってくれる!
病床日記と題しながら、世相批判ばかりで我ながらうんざりする。私が一貫して批難しているのは、思想信条の内容ではなく、その卑怯な姿勢である。同感の向きも少なくないと思うので古人にも同じような思いで腹をふくらませていた人がいることを思い出して気持ちを静めることにしよう。
徒然草 第八十五段・・・・・・
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
徒然草 第八十五段・・・・・・
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
久し振りにまともな記事
久し振りにまともな記事を3つ読んだ。
8月4日の日経朝刊文化欄に五木寛之氏が、"山河破れて国あり" と題して先の敗戦時と今回の破滅的事態の違いを論じておられるが、まさに言いえて妙とでも言うべき表現ではある。 ただ私に言わせれば、66年前の敗戦でとっくに国はなくなっており、今回の事故と災害でその時わずかに残されていた山河をも失ったと言う方がより適切だと思う。 しかし、氏のイデオロギーに囚われない透徹した人間観には、いつもながら敬服する。
8月5日の日経朝刊のコラムでは、吉本隆明氏が、"科学に後戻りはない" と題して原発廃止論を退けた上で、獲得した力に見合う制御能力の確立に努めれば良いだけだと論じておられるが、けだし当然のことで、脱原発が非現実的なのは脱核兵器がそうであるのと全く変わらないことは、小学生でもわかることだ・・・と言ったら小学生に失礼か?
同日の同紙春秋欄には、珍しくまともな記事が載っている。 日立製作所と三菱重工のインフラ事業統合を歓迎すると言うものである。 やはり、日経に限らず戦後日本のマスコミがまともな記事を書いたのは、産業界の話だけである。 このこともまた、日本がとっくの昔に国ではなくなっていたことの証左だろう。 と同時に明治以来、外圧がない限り、自発的にまともな戦略を打ち出したことのない体質だけは健在だとでも言っておこうか。
8月4日の日経朝刊文化欄に五木寛之氏が、"山河破れて国あり" と題して先の敗戦時と今回の破滅的事態の違いを論じておられるが、まさに言いえて妙とでも言うべき表現ではある。 ただ私に言わせれば、66年前の敗戦でとっくに国はなくなっており、今回の事故と災害でその時わずかに残されていた山河をも失ったと言う方がより適切だと思う。 しかし、氏のイデオロギーに囚われない透徹した人間観には、いつもながら敬服する。
8月5日の日経朝刊のコラムでは、吉本隆明氏が、"科学に後戻りはない" と題して原発廃止論を退けた上で、獲得した力に見合う制御能力の確立に努めれば良いだけだと論じておられるが、けだし当然のことで、脱原発が非現実的なのは脱核兵器がそうであるのと全く変わらないことは、小学生でもわかることだ・・・と言ったら小学生に失礼か?
同日の同紙春秋欄には、珍しくまともな記事が載っている。 日立製作所と三菱重工のインフラ事業統合を歓迎すると言うものである。 やはり、日経に限らず戦後日本のマスコミがまともな記事を書いたのは、産業界の話だけである。 このこともまた、日本がとっくの昔に国ではなくなっていたことの証左だろう。 と同時に明治以来、外圧がない限り、自発的にまともな戦略を打ち出したことのない体質だけは健在だとでも言っておこうか。
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