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2010年12月31日金曜日

年納めの大失敗・・・薬の飲み違い!

昨日もそうだったが、寒さの所為か、どうも気分が優れない。 それでも昨日は、何とか散歩に行ってきた。
しかし、今日は、更に体調が悪化し、1キロ先の「けやき通り」まで辿り着いたものの、目と鼻の先にあるドトールコーヒーやデニーズで一服する元気も出ず、道端の陽だまりに腰掛けて一休みして、そのままとぼとぼと引き返してしまった。
家に帰ってから、流石に連日の遠距離往復の疲れが出たか? と店で飲み損ねたコーヒーを飲みながら、ふとテーブルの上にいつも置いてある飲み薬のケースを見て、しまった! と気がついた。 昨日から、ここ数週間前から控えていた降圧剤を精神安定剤のつもりで飲んでいたのである。
今まで回数はともかく、種類を間違えて飲んだことは殆どなかったのに、ここのところ調子が良いので気が緩んだのだろう。 油断大敵とはまさにこのことである。 日頃、兼好法師の例の段、「高名の木登り」 を引き合いに出して注意を怠らないよう心掛けていたつもりなのに、それでもやってしまうところが油断大敵の油断大敵たる所以・・・。 "論語読みの論語知らず" とは、将にこのことである。
というわけで、冴えない年納めとなった。

2010年12月30日木曜日

散歩の行き先・・・どの店にしようか?

散歩コースとして1キロほど先のスーパーへの往復に挑戦し始めてから1月あまり経つが、最近はさほど苦痛を感じない日が多くなってきた。 医師の許可が下りて精神安定剤を就寝時だけでなく、昼間も好不調に関係なく服用できるようになったこともあるが、毎日、日課として散歩しているうちに体調が整ってきた所為もあるのではないかと思っている。

そうなると今度は、いつも同じコーヒーショップでは意欲がわかなくなってくるので、最近はその近辺のファミリーレストランに行き始めた。

いずれも、湘南ライフタウンのメーンストリート 「けやき通り」 に面している。
これまでに開拓した店をあげると・・・

ドトールコーヒーショップ 湘南とうきゅう店(年寄りばかり・・・人のことを言えた義理ではないが)

カルダン湘南ライフタウン店(比較的上品だが私のお小遣いでは一寸抵抗あり)
サイゼリア藤沢大庭店(女子高生が賑やか・・・と言うより五月蝿い)
デニーズ湘南ライフタウン店(客層も多彩だがまともな雰囲気・・・店長が良く目を配っている)

昨日、デニーズを出るとき、3歳くらいの男の子が何度もバイバイと声をかけてくれた。
今の所、デニーズが気に入っており、今日、電子マネー [ナナコ] を発行してもらった。
私も歳をとったなぁ・・・
同じ「人生の最終章」でも、畏友片山君とは大違いか!

2010年12月27日月曜日

既視感?・・・娘のBLOG と "リリー・マルレーン"

21日(火)の日記に、私の娘が正岡子規の妹の律さんに共感しているらしいと書いたが、ついでに娘のBLOG を覗いてみた。 その中に 2010.10.3 付けの日記で "漁師町の、かくれたスタインウェイ" というタイトルの記事があり、内容も悪くはないのだが、前からそのタイトルが気に入っていた。 それもただ気に入っていただけではなく、ずっと前からどこかで聞いたことがあるような気がして仕方なかった。 ここのところ益々激しくなった既視感のせいかと思っても見たが、どうも何か引っかかる。
いつもこういうときは、ベッドの中でうつらうつらしているうちに、突然、はっと気がつくのだが、今回もやはりそうだった。 第2次大戦中の欧州戦線で、敵味方を問わず大ヒットした愛唱歌、と言えば言わずと知れた例の "リリー・マルレーン(Lili Marleen)" 、その公式サイト(ドイツ語) の解説で読んだことがある・・・

「リリー・マルレーン」は、第一次大戦に従軍した詩人ハンス・ライプが東部戦線に出征する直前に書いた詩集 「港の小さなオルゴール」 の中の一編・・・

この 港の小さなオルゴール」 というタイトルの持つ哀歓と 「漁師町の、かくれたスタインウェイ」 という言葉の響きが共通する感興を呼び起こしたに違いない。 もちろん、娘は、"リリーマルレーン" も知らなければ、まして 「港の小さなオルゴール」 などという詩集のタイトルなど知る由もない。

2010年12月21日火曜日

子規と漱石≒子規と律?

チョコだらけ・・・

ピアノと英語を教えている娘が、投げてよこした上の句だが、後が旨くつながらない。 娘は目下、正岡子規の漱石に対する忌憚のないこき下ろしの句評(「病床六尺」に書いてある?)を面白がっており、多分それに刺激されて、冒頭の上句を思いついたらしい。(実際は、『妹の律に筆舌に尽くしがたい世話になりながら、悪口ばかり書き残して逝った正岡子規の口振りが、妻子に同じような苦労をさせながら文句ばかり言っている私とそっくりだ』 という議論を交わしたのがつい先日のことだから、ようやく天邪鬼の扱い方に慣れてきたのかも知れないが!)

それはともかく、いろいろ下の句を付けて答えてもけんもほろろにこき下ろされるので、なかなか手ごたえがあって気晴らしになった。 と言ってもまだ依然として駄目なものは駄目というレベルを脱したわけではないが、一応休戦状態にある。

例えば、

チョコだらけ・・・一つ食う毎 頭痛減り     酷評(こじつけ?)
(ここの所、娘が偏頭痛を訴えていたので)

チョコだらけ・・・いつの間にやら 空になり   酷評 (子供っぽい?)
(娘が、つい食べ過ぎちゃうとこぼしていたので)

チョコだらけ・・・食べた数より 残り減り    酷評 (品がない?)
(妻が、よく食べるので)

チョコだらけ・・・またまたお歳暮チョコばかり  無言(くどい?)
("だらけ" と "またまた" が呼応している・・・自画自賛)

ここのところ、娘は律に大いに共感を覚え、励まされているらしい。 と同時に、あれ程の親友である漱石の句に対する酷評を読んで、律に対する悪口もその類だと、ある程度、納得したのかもしれない・・・と思うのは私の独りよがりか・・・。

余談だが、巷間では、律を世に出したのは「仰臥漫録」という闘病日記であり、そこには、子規の妹に対する深情が吐露されていると言われている。 私もそのことに異論はない。 しかし、この2年間妻子の看病を受けながら、つくづく思ったのは次のようなことである。

「果たして律さんは世に名前が出ることを望んでいただろうか。 恐らくそうではあるまい。 ただ兄の喜ぶ顔を見たかっただけだったに違いない。 その意味では、子規は死後も律の気持ちを裏切ったということになる。 しかし、死後も人々の記憶に残ること・・・それが悪名であったとしても・・・を人生最大の念願とする多くの男子にとって、自分の一生をかけて尽くしてくれた恩人の名を後世に伝えたいと思うのもまた無理からぬことである。 その結果、律本人の意思の如何にかかわらず、後世、多くの人が励まされるとすれば、子規のやったこと・・・律にとっては傍迷惑で余計なことだったかも知れないが・・・も無駄ではなかったし、律を冒涜するものでもなかったことになる。」
これは、私自身家族や看護師、介護士の世話になるうちに、はたと気がついた事実である。 今後、高齢化社会の中で、これらを生業とする人々が決して忘れてはならないことであろう。

『世の中には名利よりも人助けを生き甲斐とするひとびとがいる。』

男でありながら、そうであるとすれば、聖人というべきであろうし、近世のわが国の歴史にその例を尋ねれば、山岡鉄舟に止めを刺す。

2010年12月11日土曜日

散歩で気晴らしの筈が・・・「燕雀安知鴻鵠之志哉」

体調の如何にかかわらず散歩に出かけることにしてから、かれこれ半月くらいになるが、流石にきつい。1キロほど先のコーヒーショップを目指して行くのだが、店につく頃には疲労困憊し、動悸は亢進するは、足は棒のようになるはで、居ても立っていられない気分になる。 店に入っても暫くの間は、コーヒーにも口をつけず目を瞑って気分の回復を待つようなありさまで、ここのところ数日、家まで辿り着けるだろうかとはらはらすることが多い。もちろん、基本的には、体調自体の良し悪しに左右されるのだが、途中での出来事によって元気が出てくることもあれば、また、その逆もある。 たとえば・・・ 10分程行った所(普通の人なら3分位?)に公園があるが、往復の途時、午後3時ごろまでに行くとよちよち歩きから10歳くらいまでの子供たちが遊んでいることが多い。 小さな子供が遊んでいるのを見るのは、それ自体が楽しいが、この公園で遊んでいる子供たちの場合、見ているこちらの方がはらはらするような場面でも、傍にいる若い母親たちが少しも騒がず、平然としているか、むしろ、叱咤激励する勢いだからである。 ああ、これなら自分たちの子供の頃とあまり変わらないなと安心する。


一方、いつも行くコーヒーショップでの当たり外れは大きい。場所が辻堂駅から慶応SFCへ行く大通りに面しているので、今週のように期末試験のシーズンになると、ノートやプリントと睨めっこしている学生を見かけるが、彼らの近くに席が取れたときは、現役時代、職場の近辺や通勤途中の駅のコーヒーショップで時間潰しをしたときの雰囲気で、大変落ち着く。 何よりも、誰も大声を出したり、のべつ幕無しに喋り続けたりする者が居ないのがいい。


ところが、今日のように、折角、学生たちの近くに席が取れたというのに、一人だけ、馬鹿丸出しのおばさんがいて、必要以上に大きな声、それも品のない声で、得々とくだらない話をしているのにぶつかった時はまったく閉口する。 私を含めて周囲に聞かせたくて喋っているのが見え見えである。 連れのおばさんは、低い声で相槌を打つだけだから、おそらく腐れ縁と諦めているのだろう。 こういう手合いはどこにでもいるが、本人にその自覚がないのだから、どうしようもない。 それでも一票が平等でいいのかと言いたくなる。 件の学生が最初からヘッドホンをつけていたので、最初は、' いまどきの学生は・・・' と呆れていたのだが、彼が上を向いて目を瞑り、じっと耐えている様子を見て、ヘッドホンをつけざるを得ない理由が、やっと判った。 いつもなら、30分もすれば、気分も多少良くなり、帰路につけるのだが、今日は、1時間近く、不快音を聞かされたので一向に回復せず、このまま此処にいたらえらいことになると思い、ほうほうの体で引き揚げてきた。 この間、苦痛に耐えながら、こういう手合いを無視するにはどうしたら良いかを、ずっと考えていたが、はたと気がついた。 昔の人は旨いことを言ったものだ。 「燕雀安知鴻鵠之志哉」  えんじゃく いずくんぞ こうこくの こころざしを しらんや 団塊世代のおばさん族よりも、団塊ジュニアの若いお母さんたちのほうが総じてまともである。ゾンビ世代の終焉も近そうだ。