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2012年4月9日月曜日

小公園の桜・・・花より遊びに夢中の子供達

急性A型大動脈解離発症から今月で3年半、周囲の医療関係者から奇跡的と言われる生還を果たしたのを機に、WEB自分史を書き始めてからも既に2年半の歳月が経過した。

この間、何一つ新しいことを成し遂げたわけではないが、これまで長い間、無意味だと思い続けてきたさまざまな体験に思いがけない大きな意味が有ったことに気付かされた。
後遺症の不快感は、決して生易しいものではなく、常に生還の損得勘定に付きまとわれるのを如何ともし難い。 しかし、きっとまた思いがけない縁のつながりが現れてくるに違いないと思い、それを生き甲斐にして、辛うじて生きて行く気力を支えている毎日である。

しかし、いくら考えても埒が開かないこともある。 下手な考え休むに似たり。 こういうときは、多少、無理をしてでも、散歩に出かけてしまうことにしたのが、一昨年11月だった。
今日も、少々無謀だと思ったが、今、桜を撮らなければ間に合わないかも知れないという理屈で強引に出かけてきた。

桜名所など望むべくもないので、とにかく、なるべく近くで桜のありそうな公園を回ってきた。
行き当たりバッタリの花見としては、まずまずの収穫だと自賛している。



2012年3月27日火曜日

テラスモール湘南・・・35年間のまちぼうけ

私達一家が横浜の団地から今の住所・・湘南ライフタウン(藤沢・茅ヶ崎共同開発)・・に移ってきたのは、1976年(昭和51年)のことだった。 湘南地区最後の大開発という触れ込みで、①藤沢地区・茅ヶ崎地区の一体開発、②辻堂駅前の大工場(関東特殊製鋼・・旧住友金属系列の圧延ロールメーカー)の移転と跡地の再開発、③芙蓉カントリークラブの下を貫通する大庭隧道の開通など々々、派手な計画が謳われていた。 まだ不動産バブルが最後の輝きを失う前のことだった。

その後、1979年~89年にかけての、不動産バブル崩壊、第一次金融バブルの崩壊の過程で、殆んどの計画がストップし、90年代に入って③が実現したのみで、①と②は、一向に進展を見ず、今日まで30年以上の月日が経過してしまった。 その間に子供達は成人して去り、高齢者ばかりのゴーストタウン化が進んで来た。" これがまあ終の棲家か・・" と、半ば諦めかけて居た所に、"テラスモール湘南" の開発工事が始まってからも既に3年余・・・、漸くその全貌が姿を現し始めた。

ついこの間まで、あんな殺風景な開発計画では数年でゴーストタウンになってしまう・・・ などと悲観的なことを言っていた妻や娘も最近ではすっかり宗旨替えして、折りあるごとに出かけては要らぬ物まで買い込んで来るようになった。 それと共に、その後背地としてのわが町の雰囲気も活気を取り戻し始めたようで、公園で遊ぶ子供達の姿が目立つようになったのが何よりも嬉しい。

そんな感慨もあって、この間の日曜日、来月19日に東京で開かれる同窓会に出かける予行演習の心算で、辻堂駅まで行ってきた。 夕方だったので行きはともかく帰りは寒かった。 おまけに目の前に停まっているバスが数秒後に発車してしまうのを 2度も見送る羽目になった。 千葉駅から東京情報大学行きのバスに乗っていた時にこんなことは無かった。 京成バスの親切さと神奈中バスの不親切さは、未だに変わらない。

たまには YouTube に新しい動画の一つもと思って、テラスモールの賑わいを撮ってきたが、障害老人がカメラを構えているのを見て、首を竦めて通り抜ける女性も居た。 我ながらあまりパッとしない出来だが、いずれもっと明るいうちに撮り直すことにしよう。


2012年3月11日日曜日

2011.3.11 は何の記念日となるか?

1年前の今日、相次いで同時に起こった2つ大事件発生から、今日で丁度一年目に当たると言うので、世界各地で記念式典が行われている。 この日に起こった2つの大事件とは、もちろん ①東日本大震災 および ②福島第一原子力発電所の崩壊 のことである。

このうち、いわゆる未曾有の名に値するのは、②であって①ではない。 大震災や巨大津波などは、最近の数百年間に限っても繰り返し起きており、偶々居合わせた当事者にとっては大事件だったかも知れないが、歴史的には日常茶飯事に属する。

しかし、マスコミの報道で見る限り、未曾有の災害として騒がれているのは専ら①であって、②はいつの間にか、政治・経済問題に矮小化されてしまったかに見える。 実際には、すでに被害の確定している① よりも、今なお進行中の② の方が遥かに深刻なはずなのにである。 もっとも深刻だからこそ見てみない振りをしていると言うべきかも知れないが。

②の事件については、昨年の3月13日~4月23日の間、数回にわたって、この BLOG にも書き、一部は英訳してYouTube にも投稿 しておいたので、それ以来、米・露・仏・独・中・ウクライナあたりのサイトから定期的に正体不明のアクセスが来るようになった。 この間、国内外からの反論は1件も無かったし、またこの間の私の主張に修正の必要はまったく無いと思っている。それどころか最近報道され始めた復元議事録の内容から見る限り、むしろ私の常識的判断と推測による断定的記述が殆ど的を射ていたことに驚いている。

因みに、先日、一昨年に続いて出席する心算でいた昨年4月13日の同窓会に、体調ゆえに欠席せざるを得ない旨メールを出した日付を見て、またまた驚いた。 何と、地震発生の当日の深夜(2011/03/11 (金) 0:48)だった。 また、ぐラッとゆれ始めた時は、偶々ケアマネージャーが来ていて妻と3人で今後のリハビリ計画を相談していたところだった。

以下は、昨年の3月13日地震発生の2日後に投稿した日記の全文である。

2011年3月13日日曜日
福島原発・・・国難に再び神風は吹くか?


大津波の騒ぎで幸いにも時間稼ぎが出来ているが、菅首相以下、決死の戦いが始まった。
ようやく明治以来、絶えて久しかった "国難" という言葉が最高司令官である菅首相の口から発せられた。 津波のことではない。 原子力発電所の致命傷のことである。 いま福島第一原発では、東電やメーカーの技術者や研究者が命がけで勝算の定かでない戦いを続けている。

もちろん、世の中には奇跡的成功というものがある。 彼らもそれを信じて全力を尽くしているに違いない。 しかし、それは、いったん故障した "はやぶさ" が "イトカワ" から生還するのを期待するに等しい。 もし、彼らの努力が功を奏したなら、国民栄誉賞は、彼らにこそ与えられるべきだ。

すでに、賢い人々は国外脱出を始めた。 私の親しい50代の物理学者も昨日の便で成田を発った。 たまたま前から共同研究先との約束があったからだが、仮にそうでなくても卑怯だとは思わない。 私自身は、この年で今更逃げ出す気は無いが、いまや一人でも多くの若い人には生き残っていてほしい。 終戦時に自分自身は現地にとどまり、優秀な部下を日本内地に脱出させた多くの旧日本軍将校の気持ちが痛いほどわかる。 急性A型大動脈解離からの 奇跡的生還を果たした損得勘定 の得の筆頭に挙げるべき体験だろう。

あとは、神風が吹くのをまつのみ!


At the Fukushima "GEN-PATSU" (Nuclear Power Plant), young engineers and scientists are making desperate efforts to stop the nuclear reactor.

If they could succeed in it, by some miracle like "KAMIKAZE",
they should be awarded the "Order of National Hero".

But it is far more difficult than "HAYABUSA's miracurous return to
the Earth".
投稿者 関口益照 時刻: 11:37

2012年3月1日木曜日

宮沢賢治との時空を超えた縁

一昨日の日経夕刊 "明日への話題" 欄で、住友信託銀行相談役の小山温氏が、昨年3月の東北大震災以降、国内外で宮沢賢治が注目され、「雨にも負けず」 が英訳版も含めて紹介される機会が増えた。と言う趣旨の寄稿をされていたのを読んで、突然、今まで書き忘れていたことを思いだした。

多分、大抵の日本人は、彼の名前くらいは知っているだろう。 早世した妹トシへの挽歌 「永訣の朝」 は知らなくても、「雨ニモ負ケズ」 の詩は、教科書にも載っているので 国語の時間に習った人が多いと思う。
また、彼が 法華経 を座右においていたことも、よく知られていることで、わざわざ此処で書くまでもない。

私が、是非ここで書き残しておきたいのは、彼の人生観の根底には、"" が(だけだったとは言わないが)あったということである。 私がそれを知ったのは、昭和42年(1967)10月に父が他界した後、母が桐生の家を引き払って東京の兄の家に移ってくる前後のことだったと思う。

生家に残されていた書籍類の中に、祖父が生前師事していた 曹洞宗原田祖岳老師 が拠点とした 福井県発心寺 の機関紙を見つけ、パラパラと捲って読むともなしに見ていたところ、その機関紙(名前が思い出せない)を宮沢賢治が購読していたこと、さらに何度かは知らないが寄稿していたことが記されていたのである。

果たして賢治がどこまで原田老師に私淑していたかは、知る由もないが、理論倒れの仏教学者たちに愛想を着かして駒澤大学教授の地位を捨て、一方、形骸化した永平寺の公案禅にも飽き足らず、発心寺を拠点に全国行脚していた原田老師に教えを請い、参禅した可能性は否定できない。

因みに、亡父が祖父から聞いた話によると、老師は、アインシュタインの相対性理論の登場に接し、これからは、科学者に "禅理" の解明を期待すると言っていたそうだ。 また随一の高弟と目されていた 安谷白雲老師 は、70歳を超えて尚、米国での "禅" 普及活動を続けていた。

二十歳前後の書生時代に、藤村操の死をめぐる論争に疑問を持ち、黒岩涙香に面会して議論を挑んだと言う 祖父 が、聖書から西洋哲学、果ては老荘思想にいたる遍歴の末、最後に廻りあった知行合一の傑僧に賢治が何の影響も受けなかったとは到底思えない。

2012年2月9日木曜日

故郷は緑なりき・・・忘れえぬスチール写真

日経朝刊 "私の履歴書" に、今月始めから女優の佐久間良子が登場していることは知っていたが、私は彼女の映画を見たこともなく、とくに関心を持っていたわけでもないので、記事に目を通してもいなかった。 ところが、先ほど食卓の上に放置されている新聞を片付けようとしてきちんと畳み直そうとしたところ、"故郷は緑なりき" と言う文字が目に飛び込んできた。

なぜこの、"故郷は緑なりき" と言う見てもいない映画の題名だけが目に付いたかと言うと、学生時代、何かの新聞の映画紹介欄に載っていたスチール写真の印象が強く残っていたからだ。 それは、清純そのものの女子高生が自転車で山道をこちらに向かって走ってくる所だったが、その光景に、周囲の景色とともに、私自身が高校時代、渡良瀬渓谷沿いの崖道を自転車で走った想い出と重なるものがあったからだ。
そうか、あの時の写真で見た女子高生は佐久間良子の少女時代の姿だったのか。 そう思った途端、今まで一度も美人女優として意識したことのなかった彼女に、無性に好感が湧いてきた。

早速インターネットで検索してみると、映画が実現するまでの紆余曲折やスチール写真の紹介記事は沢山出てきたが、私の記憶にある自転車に乗った美少女の写真は一つも見つからなかった。

2012年1月31日火曜日

元上司の訃報 ・・・山本卓眞さんからの宿題

昨日の新聞で、新入社員時代の元上司、山本卓眞富士通名誉会長の死去を知った。
去る1月17日に肺炎で急逝されたらしい。
私達の結婚式で主賓として、祝辞を頂き、夫婦でご挨拶に伺った方だから、当然、葬儀に参列しなければならないところだが、この体ではそうも行かない。 いずれ、騒ぎが収まってからご命日を選んで、墓参したいと思う。菩提寺が護国寺だと言うことは、20年くらい(?)前に、母堂フジヱさん の葬儀に参列した時から知っている。

ここでは、上司としての山本さんに褒められた数少ない思い出について書いて置くことにする。
入社4年目の1967年頃だったと思うが、私達は、社内コードORBS(online realtime banking system)なる社運をかけたプロジェクトに取り組んでいた。 一旦、日本IBM社に決定していた第一銀行普通預金システムのデュープレクス構成のうちオンライン側の一台を、富士通(古河鉱業直系)と第一銀行は運命共同体であるとの理屈でキャンセルさせ、全て国産技術で稼動させようと言う、無謀ともいえる壮挙だった。

それに先立つ半年の間、丸の内仲通りに面した古河総合ビルの1階ショールームに陣取った我々数人のSEは、昼夜兼行でモデルシステムを完成し、主要銀行の事務部門の幹部を招いたデモを成功させていたが、それは飽くまでもデモシステムに過ぎず、①性能や②信頼性、さらにはダウンした時の③リカバリー方式などは、暗中模索の状態だった。このデモプロジェクトで私が担当したのは、普通預金業務処理の全てを、数キロバイトのプログラムで動かして見せることだった。 主記憶装置のキャパシティー不足を磁気ドラムで補ったり、一つのビットを数通りに使い分けるなど、今考えると将に曲芸のようなプログラミングだったが、それも上記の①②③等を二の次にしたから出来たのであって、とてもそのままでは実用に耐えるものではなかった。
しかし、兎に角、我が社は、この見掛け倒しの張りぼてで第一銀行オンライン普通預金システムを受注し、1年後には首都圏100店舗で稼動させなければならないと言う、絶体絶命の瀬戸際に立たされることになった。

課題はハード、ソフトに渡って山積していたが、人々の注目は専らハードに集まっており、①②③のどれが欠けても実現しないことを真に分かっているものは、社内でも山本卓眞以下数人しかいなかったと思う。 これ等の難題のうち、私が担当したのは主として①と③だったが、①では "排他制御" と "応答時間"、③では、最近の用語で言えば "トランザクション管理" と "データのインテグリティー" に関して、国際的に確立された方式がなかった。 私達は、この2つの課題に対して、当時としては、最も進んだ解を見出したと思っている。
当時、クレジット・オーソリゼーション・システムで先行していた米国に前例が無かったのは、クレジット・オーソリゼーションでは、リアルタイムに残高を確定する必要が無く、即時更新を伴わない、所謂 READ ONLY SYSTEM しか無かったからである。

彼ら、米国勢からすれば、自国の1割にも満たないアジア市場の中でも、豪州やフィリピン・香港に比べて更に遅れている(と彼らは思っていたらしい)日本とか言う特殊な国の銀行の言い分など一顧だにも値しなかったのだろう。 日本IBM社の社長だった椎名武雄氏が、日頃から日本IBM社内で "Sell IBM in Japan, Sell Japan in IBM" をスローガンにして社員を鼓舞していたという気持ちが良くわかる。

当時、日本IBM社のSEが、虎の威を借る狐の如く傲慢だったことは、某銀行の事務部員からも聞いたことがある。 例えば、マニュアルがいただけないかと言う彼らの要請に対して、部厚い英文のドキュメントを何の説明も無く投げ与え、日本語の資料が欲しいと言うと、「何だ、英語も読めないのか・・・と言わんばかりの表情で一瞥しただけで、無視された」 と聞いたことがある。
何だか何処かの国との政府間関係のようだと思うのは私の思いすごしか・・・・。

③については、残念ながら根拠となる資料が手元にないが、①に関しては、山本さんに褒められたこともあって、未だに手元に残っているので、その一部を披露することにした。 褒められたと言っても文系社員としては、という前置きがあり、それに続いて本格的な理論モデルのヒントを与えられたにも拘わらず、忙しさを理由に真面目に取り組まなかったことが、ずっと気にかかっていたが、若しまじめにやっていたら今頃は国際学会で大きな顔をしていられたかも知れない。








お役所からご指導を受けた!?・・・その2

昨年12月26日の日記で触れた掲題の件について、昨日(2012.1.30)に当のお役所から電話があり、修復後の外壁の色が協定に違反しているといってきた。 何でも一部の住民から(誰からかは言ってくれない!)クレームが来ているのだと言う。 私は電話に出られないので妻が応対した。

当方としては、事前に当局へ連絡し、ご指導をお願いしていたのに、それに対して何の応答も無く、工事完了と同時にクレームを付けられて、それに応じなければならない理由は全くないと言い返し、クレームの申立人とその要件を文書で示すよう要請したが、言を左右にして一向に応ずる気配がない。 文書の件は1年前の隣家とのトラブルの際も申し入れてあるのだが、それに対しても梨の礫である。 証拠を残さず越権行為で相手に泣き寝入りさせる時の不要(不良?)役人の常套手段だということは、始めから分かってはいたが、改めて呆れ返った次第である。

押し問答の末、先方は、「行政としては、これで指導責任を果たしたことにする。従わないなら本庁に上げる・・」と言うので(脅かした心算かも知れないが)、「どうぞ」と言って電話を切った。
とにかく、彼らの保身ぶりは見事と言えば見事である。 1年も前から私の病状を知りながら、文書での意見交換の要請を無視し続け、今回も電子メールでの連絡要請に全く応えようとしないのだから、お上意識と責任逃れの習性も骨がらみというしかない。
たいていの場合、業者や組織人は、いわゆる "別件逮捕" の嫌がらせを恐れて、言うことを聞くので、それが習い性と成っているのだろう。

さて、次はどう言ってくるか見ものである。 最近は裁判で行政側が負けることがあるので、大禍なく任期を終わりたいお役人としては、この程度のことでそんなリスクは冒さないだろう。
となると、"一部住民" が業を煮やしてマスコミに駆け込むかも知れない(行政当局の言)が、それならそれで、相手がはっきりするから堂々と議論すればよいと思っている。